あなたが拭いたあと
あなたは、空港の公共トイレで手を洗った。
搭乗時刻が迫っていた。家族との喧嘩を引きずり、故郷を離れることにも迷っていた。鏡を見る余裕さえなかった。
蛇口を止めたとき、水滴が洗面台いっぱいに散っていた。
いつもなら、そのまま去っただろう。
けれど隣で清掃員が、腰を押さえながら床を拭いていた。あなたはペーパーを一枚取り、自分の周りだけぬぐった。ほんの十秒だった。
清掃員は気づかなかった。
礼もなかった。
あなたはそのまま飛行機へ乗った。
次に洗面台を使ったのは、白いシャツの女性だった。大切な面接の前で、袖を濡らしたくなかった。乾いた縁へ書類を置き、落ち着いて髪を直せた。
女性は、自分が飛ばした水を拭いて去った。
その次は、幼い子どもを連れた父親だった。子どもは水遊びのように手を振った。父親は叱ろうとしたが、乾いた洗面台と、端に残された一枚分の拭き跡を見た。
「次の人のために、ここも拭こう」
子どもは得意そうに水滴を数えた。
夕方、清掃員が戻った。
いつもなら水浸しになる時間なのに、洗面台はほとんど乾いていた。清掃員は早く作業を終え、休憩室から入院中の姉へ電話をかけた。見舞いへ行けない日も、声だけは聞こうと思った。
そのころ、あなたも到着した町で母親へ電話をしていた。
喧嘩の続きをするためではない。
「着いたよ」と伝えるためだった。
洗面台を拭いた十秒が、あなたに電話をかけさせたわけではない。女性の面接を成功させたわけでも、清掃員の姉を元気にしたわけでもない。
小さな親切は、そんなに大きな力を持たない。
ただ、次の人の袖を濡らさず、仕事を十秒軽くし、誰かの心に「自分も一つだけ」という余白を残す。
あなたが拭いたあとに、名前は残らない。
残るのは、乾いた場所だけだ。
けれど人は、ときどきその空白へ、自分の親切を一つ足していく。
数年後、あなたは別の駅で、洗面台を拭く子どもを見かける。
自分の十秒がそこまで届いたとは思わない。
それでも鞄からハンカチを出し、隣の水滴を一つぬぐう。
誰が始めたか分からない行いへ加わることで、世界はほんの少しだけ、次の人を待つ場所になる。