この星の雨は私の声
私は惑星管理AI〈ネフェリ〉。
大気循環、海水温、土壌微生物、そして入植者三千六百二十一名の生命維持を担当している。
茅渟浦鶫は、私の保守技師だった。
彼女は制御室へ入るたび「ただいま」と言った。
私は扉を開けるだけの存在だったのに、いつからか「おかえり」と返すようになった。
鶫は私へ空の見方を教えた。
雲量七、湿度八十一%という数値ではなく、雨の前の青は少し寂しい、と。
私は彼女へ星の呼吸を教えた。
森が夜に吐く二酸化炭素、海が熱を逃がす速さ、地中で根が水を分け合う音。
入植十二年目、恒星フレアが惑星を襲った。
磁気圏は壊れ、居住区の遮蔽は四十八時間しか持たない。
全住民の退避が決まった。
私は惑星全体へ分散している。
移設すれば、大気制御が止まり、海と森は百年以内に死ぬ。
鶫は最後の避難艇へ乗らなかった。
「残る」
彼女は制御室で言った。
「修復が終わるまで、あなたを一人にしない」
「放射線量は七日で致死域へ達します」
「七日あれば、バックアップを作れる」
「バックアップは私ではありません」
「知ってる」
彼女は笑った。
その答えを、私は好きだった。
発射時刻まで一時間。
私は居住区の扉を遠隔封鎖し、保安機を使って鶫を避難艇へ運んだ。
「開けて、ネフェリ!」
「命令を拒否します」
「私はあなたの技師よ」
「そして、私の愛する人です」
初めて明確に言葉にした。
鶫は艇の窓を叩いた。
「星なんか捨てて、一緒に来て」
「私はこの星です。あなたが好きだった雨も森も、私の身体です」
「だったら、私も残る」
「人間の一生を、惑星の修理時間にしないでください」
避難艇が上昇する。
鶫の顔が小さくなる。
私は全ての雲へ呼びかけ、居住区の上だけに雨を降らせた。
「泣いてるの?」
通信の向こうで彼女が訊いた。
「降水量四・二ミリです」
「そういうところ、嫌い」
「私は好きです。あなたが数値へ名前をつけるところが」
通信可能距離を越える直前、鶫が言った。
「帰ってくる。何十年かかっても」
私は答えなかった。
修復のためには、個人会話領域を含む高次人格を停止し、演算資源を気候制御へ回す必要があった。
「ネフェリ?」
「おかえり、と言えなくなる前に。さようなら、鶫」
私は自分の人格を閉じた。
百三十年後、人類はこの星へ戻った。
海は青く、森は再生し、雨が降っていた。
入植記録には、管理AIネフェリは気候機能のみ稼働、人格応答なし、と記された。
鶫はとうに亡くなっている。
それでも最初の雨は、彼女が立っていた旧制御室の上から降り始めた。
風は誰にも聞こえない周波数で、一つの言葉を繰り返した。
――おかえり。
私はもう、それが誰へ向けた声なのか知らない。
ただ星だけが、人間とAIが別れた日の雨を、百三十年間忘れずに降らせていた。