ほどいた袖の昨日

 灰紫のドレスは、縫い目を一本ほどくたび、過去の選択を一つやり直せる。その代わり、元の選択によって出会った誰かが、現在から消える。

 ネリがそのドレスを買ったのは、父の葬儀の翌日だった。

 三年前、彼女は故郷の仕立て屋を継がず、王都へ出た。父から届いた最後の手紙には「忙しいなら帰らなくていい」とあった。真に受けて、仕事を優先した。雪で道が閉ざされた翌朝、父は亡くなった。

 父は無口な人で、王都へ行く娘を止めなかった。餞別の財布だけを三度も縫い直し、「失敗したら帰れ」とは最後まで言わなかった。その遠慮を、ネリは応援だと思った。葬儀で古い作業机を開けると、王都の記事を切り抜いた紙が何十枚も出てきた。帰らなかった後悔より、待っていたと知らなかった後悔のほうが重かった。

 袖口の糸を一本抜けば、あの日に戻れる。

 けれど王都へ出たから、同居人のココルに会った。失敗した夜に鍋を焦がし、初めて大口の注文を取った朝に抱き合い、父の訃報を聞いた日には何も尋ねず隣で眠ってくれた人だ。

「ほどけば、私が消えるんだね」

 ココルはドレスの説明書を読んで、静かに言った。

「たぶん」

「お父さんに会いたい?」

「会いたい」

 答えた途端、ネリは泣いた。ココルはいつものように背中をさすったが、その優しさこそ、代金になる。

 夜更け、二人で最後の食事をした。焦げた豆の煮込み。塩を入れすぎたパン。出会った日に作ったものと同じ献立だった。

「戻ったら、お父さんに何て言うの」

「帰らなくていいなんて、二度と言わないでって」

「じゃあ、そのあと王都へ来て。私がいなくても」

 ココルは笑い、ネリの針箱から糸切り鋏を取った。

「今度は、ちゃんと自分で選んで」

 袖口には、過去へ続く一本の糸が光っている。

 ネリはココルの顔を、眉の癖も、欠けた前歯も、涙をこらえる唇も、全部覚えようとした。

 そして鋏を入れた。

 糸が切れるより先に、向かいの椅子から人の気配が消えた。テーブルには、なぜ二人分あるのか分からない皿だけが残った。