グラスを伏せる前に

馴染みのバーが今夜で閉まると聞き、美弦は開店直後に行くつもりだった。

 けれど仕事を言い訳に先延ばしし、着いたのは閉店二十分前。カウンターのいちばん奥に、蒼士がいた。

「久しぶり」

「席、ほかにないの?」

 店主は申し訳なさそうに、二人分の水を置いた。最後の客は元恋人同士だけ。逃げるには露骨すぎた。

 蒼士は美弦が昔よく飲んだジントニックを注文しようとした。

「勝手に頼まないで」

「ごめん」

「許してないから」

 一年前、蒼士は一度だけ浮気をした。一度だけだから許してほしい、と彼は言わなかった。言い訳もせずに謝り、美弦が別れを告げると受け入れた。だからこそ、怒りの置き場がなくなった。

 好きではなくなれたなら簡単だった。許したと言えば、裏切られても戻る人間になる気がした。それが言えない理由の全部だった。

「今も、ここ来てた?」

「月に一度くらい」

「俺も」

「知ってる。店主さんが、重ならないようにしてくれてたから」

 店主は聞こえないふりでグラスを磨いた。

 壁の時計は十一時四十五分。閉店まで十五分。

「許してないから、思い出話はしない」

「分かった」

「近況も聞かない」

「分かった」

「私が元気そうで安心した、みたいな顔もしないで」

 蒼士は困ったように目を伏せた。

 店主が二人の前に、小さな皿のオリーブを置いた。「最後だから、サービス」

 美弦は一粒を爪楊枝で刺した。蒼士も同時に手を伸ばし、指が触れそうになって引っ込める。その動きまで昔と同じで、腹が立った。

「連絡先、消した?」

 蒼士が聞いた。

「消した。ブロックもした」

「そうだよね」

「そっちは?」

「消せなかった」

 閉店五分前、店主が看板を裏返しに行った。

 美弦はスマートフォンを開いた。ブロック一覧の中に、覚えたままの番号がある。

「許してない」

 三度目は、蒼士にではなく自分に言った。

「あなたをじゃない。まだ好きな自分を、ずっと許してない」

 蒼士は何も答えなかった。謝れば壊れる言葉だと分かっている顔だった。

 店主が最後のグラスを伏せる。

 美弦はブロックを解除した。ただし、メッセージは送らなかった。蒼士の番号が再び連絡先の一覧に現れるのを見届け、スマートフォンを伏せた。

「閉店だって」

「うん」

 二人は別々に会計をし、同じ扉から出た。どちらも、すぐには反対方向へ歩かなかった。