ソースは戻らない
午後八時十五分、フランス料理店の厨房で、冬木英介は魚料理用のソースに油の輪が浮くのを見た。十二皿分。予約客の主菜が出るまで九分だった。
客席係が小窓から「記念日の卓です」と念を押した。魚はすでに休ませに入り、盛り付け担当は温めた皿を十二枚並べている。作り直すには時間が足りないが、失敗した鍋をそのまま出せば、照明の下で油の輪がはっきり見える。
「バターを足せ。量で押し切る」
料理長が言ったが、英介は鍋を火から外した。分離したところへ脂肪を増やしても、重たい油が上へ集まるだけだ。乳化が切れた原因は、若手が鍋を沸騰した湯煎へ戻したことだった。縁に細かな泡が付き、底だけが過熱している。
英介は冷たい鍋にぬるま湯を小さじ一杯入れた。そこへ分離したソースを一度に戻さず、お玉の先から糸のように落としながら泡立て器を動かす。白い筋が現れ、油の輪が消えた。さらに少量ずつ戻し、鍋底を濡れ布巾の上で冷ましながら続ける。
料理長が時計を見た。
「間に合うのか」
英介は答えず、木べらの背へソースを引いた。指で一本線を引く。線の両側が流れ込まずに残った。ナッペの状態まで戻っている。
全量を戻したあとも、英介は鍋を大きくあおらなかった。いったん戻った乳化は、強い熱と衝撃でまた切れる。十二皿を二回に分け、六皿分ずつ小鍋へ移した。片方に問題が出ても、全皿を失わないためだった。
残りの湯煎は火を止め、鍋が直接熱湯に触れない高さへ網を置いた。盛り付け担当には、ソースを先に皿へ敷かず、魚が上がってから最後に回すよう手順を変えてもらった。待つ間に皿の上で冷えれば、また脂が浮くからだ。
客席から皿が戻るまで、英介は残した一匙を冷めた状態でも見た。油の輪は出ていなかった。
九分後、十二皿は同じ艶で客席へ出た。料理長は空になった鍋の底を見て、「足さなかったな」とだけ言った。
その声に重なるように、菓子場からベルが鳴った。今度はデザートのクリームが立たないという。英介は泡立て器を洗い、まだ温かい手で冷蔵庫の扉を開けた。