ログアウトの音はしなかった
オンラインゲーム〈空舟年代記〉で、三廻部瑛奈は〈ミナモ〉、杷木遼生は〈ルークス〉と名乗っていた。
二人は毎晩、浮遊都市の時計塔で待ち合わせた。
現実の職業も住所も知らなかったが、互いの好きな食べ物と、眠れない夜の理由は知っていた。
ゲーム内で結婚式も挙げた。
仲間たちは冗談半分に祝ったが、二人は本気だった。
「いつか現実でも会おう」
遼生が言うと、瑛奈は毎回「レベル百になったら」と答えた。
怖かったのだ。
画面の外で会い、想像した人と違ったら、時計塔まで失う気がした。
瑛奈の父が倒れ、彼女は夜にログインできなくなった。
遼生も転職し、早朝勤務になった。
〈今日は無理。また明日〉
〈了解。無理しないで〉
伝言板には同じ言葉が並んだ。
瑛奈が三日ぶりに入ると、遼生の最終接続は二時間前。
遼生が休日に待つと、瑛奈は前夜に来ていた。
互いに贈ったアイテムだけが、郵便箱を行き来した。
半年後、瑛奈は久しぶりに時計塔へ行った。
二人で座ったベンチには、別の冒険者たちがいた。
場所は誰のものでもない。それなのに、奪われた気がして引き返した。
遼生もその夜に来た。
ベンチが空いていたので、瑛奈はもう待たないのだと思った。
連絡先を交換すればよかった。
けれど今さら「会いたい」と送ると、途切れた時間を責める言葉になりそうだった。
二人とも、相手の生活を邪魔しないことを優しさだと信じた。
やがて運営からサービス終了が告知された。
最終日、瑛奈は父を寝かせたあとログインした。
時計塔には誰もいなかった。
フレンド欄の〈ルークス〉は灰色で、最終接続は四百十二日前。
彼女はチャット欄へ打った。
〈さようなら。好きだったよ〉
送信先が不在のため、メッセージは保存されません。
表示を見て、全文を消した。
零時、空舟年代記の空が白くなった。
都市も塔もアバターも、輪郭からほどけていく。
瑛奈は最後に手を振る動作を選んだ。
誰もいないベンチへ、ミナモが笑顔で手を振った。
接続は切れた。
普段なら鳴るログアウト音は、サービス終了時には鳴らなかった。
翌朝、遼生は終了のお知らせを見て、昨夜が最終日だったと知った。
仕事で入れなかったのではない。
もう長いあいだ、自分から入ろうとしていなかった。
二人は別れ話をしなかった。
現実の名前でさよならを言うこともなかった。
ただ、明日会えると思っていた仮想の夜が少しずつ減り、最後には、別れを告げる場所そのものが消えた。
音のしないログアウトだけが、二人の自然消滅へ遅れて置かれた終止符だった。