一円の捜査費
三億円の裏金は、一円のずれから見つかった。
日下部晴香監察官は、会計課の小部屋で東郷谷稔警視正と向かい合っていた。暴力団対策費の内部監査。二年間の情報提供料はすべて領収書が揃い、現金残高も一致している。ただし、毎月最後の支出だけ、帳簿と銀行記録が一円違った。
「端数処理だ」
東郷谷は笑った。
「三億の中の二十四円を、監察が問題にするのか」
晴香は二十四枚の精算票を並べた。一円多い月と、一円少ない月が交互に続く。支払先の符号を月順に読むと、数字は警察官の職員番号になった。
その番号の持ち主は、三年前に自殺した会計係だった。遺書はない。だが彼は、端数を使って「自分の番号」を帳簿へ残していた。死亡翌月から一円のずれは途絶え、代わりに遺族へ匿名の現金が届き始めている。差出人欄は、すべて空白だった。封筒に巻かれた帯封だけは、県警会計課でしか使わない薄紫色だった。
晴香は精算票の裏面を示した。紫外線を当てると、消された鉛筆跡が浮く。
――情報料ではない。口止め料。決裁者T。
「死人の落書きだ」
「決裁印はあなたです」
「印は部下が預かる。現場の情報屋を守るため、領収書を作ることもある。それを全部犯罪扱いすれば、捜査協力者が死ぬぞ」
東郷谷は晴香の昇任内示を机へ置いた。
「一円を見なかったことにすれば、君は本庁へ戻れる。追えば、監察は捜査費の秘密を法廷へ出すことになる。何十件もの事件で情報源が割れ、裁判がひっくり返る」
晴香は内示を伏せた。確かに、支払いの中には正当な秘匿費もある。だが二十四件だけ、受領者の指印が同じだった。架空の情報屋に支払った金が、警察官の事故や暴行を黙らせるため流れている。
「一円は、助けを求めるには小さすぎましたね」
「だから忘れろ」
「小さいから、二年も残ったんです」
晴香は監査区分を「計算誤差」から「組織的不正支出」へ変更した。関連事件の一覧を添付し、決裁者欄に東郷谷の名を入力する。
最後に帳簿の残高を一円だけ赤字に直し、その赤を残したまま報告書を送信した。