一度だけ話す傘

 この町では、形見は一度だけ、持ち主の声で話す。

 いつ話すかは分からない。時計なら誰かが遅刻しそうな朝。鍋なら家族が腹を空かせた夜。だから人々は、声を聞き逃さないよう、形見を大切に使った。

 祖母が残したのは、紫色の傘だった。

 私は祖母の声を失うのが怖くて、傘を布に包み、押入れの奥へしまった。雨の日も濡れて歩いた。

 祖母なら何と言うだろう。

〈元気でね〉

〈ちゃんと食べなさい〉

〈泣いてもいいのよ〉

 答えを知りたくて、知ってしまいたくなかった。

 七年後の梅雨、駅前で小さな男の子を見つけた。傘もささず、ランドセルを抱いて震えている。

「家は?」

「帰りたくない」

 詳しいことは言わなかった。私は交番へ連れていこうとしたが、男の子は首を振り、雨の中へ走り出した。

 なぜか祖母の傘を思い出した。

 家まで戻り、包みをほどく。紫色は褪せ、骨の一本が少し曲がっていた。

 駅へ戻ると、男の子はまだ軒下にいた。

「これ、貸すよ」

「大事な傘じゃないの」

「大事だから、使うの」

 二人で入るには小さかった。私の右肩と、男の子の左肩が濡れた。

 しばらく歩いたところで、傘が祖母の声を出した。

〈半分ずつ濡れれば、ひとりで帰らなくてすむよ〉

 たったそれだけだった。

 私は立ち止まり、泣いた。もっと私だけに向けた言葉がほしかった。名前を呼んでほしかった。

 男の子は傘の柄を握り直した。

「おばあちゃん?」

「うん」

「ぼくにも言ってくれた」

 その一言で、胸の中の狭い場所がほどけた。

 祖母は生前、雨の日になると近所の子を何人も傘へ入れた。帰宅したときはいつも片側だけびしょ濡れで、母に叱られて笑っていた。

 声は、私への遺言ではなかった。

 祖母が何度も選んだ生き方そのものだった。

 男の子は交番で家のことを話した。迎えに来た叔母は、濡れた私たちへ何度も頭を下げた。

 帰り道、傘はもう話さなかった。

 それでも雨が降るたび、私は紫色の傘を持って出る。知らない誰かが軒下で困っていれば、少し無理をして隣を空ける。

 形見から声は消えた。

 代わりに私は、祖母と同じ側の肩を濡らすようになった。