一枚の絵と一時間

 神代凪子は、美術館へ行くと全部の作品を見なければ損だと思っていた。

 入口でもらった案内図へ順路を引き、解説を読み、気に入らない絵の前でも最低十秒は立つ。見終えるころには足が痛く、何が好きだったか分からなくなる。

 日曜に訪れた市立美術館では、小さな風景画展が開かれていた。

 凪子はいつものように一室目から順番に進んだが、三枚目で足が止まった。

 冬の畑を描いた絵だった。白い空、枯れた畝、遠くに赤い屋根が一つ。人は描かれていない。

 説明には、画家が病後に毎日同じ窓から描いたとあった。

 凪子はベンチへ座った。次の人が来たら譲ろうと思ったが、誰もその絵の前で長く止まらない。

 白い空を見ていると、雪が降る前なのか、降ったあとなのか分からなくなった。赤い屋根の家には誰かいるのかもしれない。いないのかもしれない。

 二十分ほど経ち、凪子は案内図を見た。

 展示はまだ六室残っている。すべて見れば閉館近くになる。

 けれど立ち上がる代わりに、もう一度絵を見た。

 畑の端に、最初は気づかなかった細い道がある。赤い屋根へ向かっているようにも、画面の外へ続いているようにも見えた。

 凪子は結局、一時間その部屋にいた。

 残りの展示は見ず、美術館の喫茶室へ入った。注文したのは、白い豆のスープと小さな丸パン。スープにはローズマリーが浮き、温かな豆の匂いがした。

 窓の外には、絵とよく似た冬の庭がある。ただしこちらには、剪定をする職員が一人いた。

 凪子は手帳へ感想を書こうとした。

〈静かだった〉

 それだけ書き、閉じた。画家の意図や構図の良さをまとめる必要はない。白い空と赤い屋根が、自分の中にどう残ったかは、まだ言葉にしなくてよかった。

 帰りにミュージアムショップへ寄ったが、絵葉書は買わなかった。

 印刷された小さな絵より、記憶の中の道の方が長く続いている気がしたからだ。

 外へ出ると、本物の空も薄い白だった。

 凪子は駅への近道を選ばず、美術館の庭を一周した。コートの内側にはローズマリーとパンの香りが残り、歩くたび、あの赤い屋根へ向かう細い道が胸の中で静かに伸びていった。