一歩目の所有者

葛城夕佳の最古の記憶は、自分の一歳の誕生日だった。

赤い風船へ向かって二歩進み、尻もちをつく。査定AIが希少体験として薦めた商品だった。若い母が泣きながら笑い、父の声が「撮れた」と弾む。夕佳は成人祝いにその記憶を買った。幼児期の記憶は希少で、百二十万円もした。

販売者の欄には、母の名前があった。

夕佳が三歳のとき、心臓手術の費用が足りず、母は娘の成長記録を順番に売った。初めて笑った朝、最初に「おかあ」と言った夜、そして一歩目。記憶を抽出された母には、写真だけが残った。日付を見なければ、夕佳がいつ歩き、何を最初に話したか答えられない。それでも手術痕を見るたび、「これでよかった」と笑った。

「あなたが覚えていてくれるなら同じことだと思ったの」

母はそう言ったが、夕佳は腹を立てた。自分の人生の始まりが、誰かの金庫で値上がりを待っていたことが許せなかった。しかも購入費の大半は、母が老後用に貯めた金をこっそり送ってくれたものだった。

夕佳は記憶を母へ返そうとした。だが独占権は買い手にあり、再移植には所有者本人の消去が必要だった。

「私が忘れれば、お母さんは思い出せる」

母は首を振った。

「それじゃ、また同じ売買になるでしょう」

二人は結局、共有再生を選んだ。完全な記憶として戻すのではなく、端末を通して同時に体験する方法だった。

赤い風船が揺れた。小さな夕佳が立ち上がる。母の視界は涙でにじみ、父の笑い声が近づく。夕佳は自分の足裏に、床の冷たさまで感じた。

再生が終わると、母は「こんな声だったのね」とつぶやいた。自分の笑い声すら忘れていた。

数年後、夕佳に娘が生まれた。医療費のため記憶を担保にできる育児保険を勧められたが、彼女は断った。代わりに、母と三人で毎月一本だけ映像を撮った。

娘が初めて歩いた日、夕佳は端末を置いて両手を広げた。記録は少しぶれ、母の歓声が大きすぎて、肝心の一歩は半分しか映らなかった。

それでよかった。誰にも所有できない不完全さごと、その日は三人のものになった。