一滴のオリーブ油

 海を見下ろすマスラ砦には、油甕が二百並んでいた。

 中身はすべて井戸水だった。

 粉は昨夜尽きた。兵は干した鼠肉を分け、城主サイフ・ラダンは三日何も食っていない。礼拝所の灯まで消し、芯に染みた油を兵の唇へ塗ったほどだった。だが包囲軍の提督バルドメロは、砦の兵糧庫を一目見れば撤くか攻めるか決める男だった。

 停戦交渉に来た提督を、倉庫番のハリームが案内した。

「ずいぶん油がある」

「春の徴税分です」

 各甕には、薄くオリーブ油を浮かべてある。蓋を開ければ香りが立つ。水面へ油を広げる作業に、倉庫番たちは夜を使った。量は匙一杯ずつ、失敗すれば灯一晩分が消えた。指を差し込まれれば、その下が水だと分かる。

 バルドメロは一つ目の蓋を開け、匂いを嗅いだ。

 二つ目では甕を軽く叩いた。水も油も、音は似ている。

 三つ目で、ついに指を伸ばした。

 ハリームは止めなかった。止めれば負ける。

 提督の指先が油膜を破りかけたとき、倉庫の奥で甕が倒れた。若い兵が、わざと一つ割ったのだ。石床へ黄金色の液体が広がる。

 あれだけは本物だった。砦に残る最後の油である。

「粗忽者め」

 ハリームは兵を殴り倒した。殴り方まで打ち合わせてあった。

 提督は床を流れる油を見た。飢えた城なら、一甕を割った兵はその場で斬られる。拳で済ませるのは、油が惜しくない証拠に見える。

「降伏する気はないらしい」

「腹が減れば考えます」

「その日は遠そうだ」

 バルドメロは指を引き、倉庫を出た。

 提督の船団は、砦を攻めず港口の封鎖を続けるはずだ。砦に油が余るなら、焼夷壺も十分あると考える。石壁を登るより、海で待つ方を選ぶ。そう読ませるための二百甕だった。

 今夜だけ待たせればいい。

 月が中天へ来た頃、沖の闇に三つの灯が並んだ。味方の火船である。封鎖船へ潮上から流し込み、混乱の隙に麦船を入れる。

 サイフが城壁から訊いた。

「提督は信じたか」

「信じたのではありません。確かめなかっただけです」

 ハリームは床に残った一滴を指で拭い、舐めた。苦かった。

 沖で最初の火が走る。

 サイフが剣を抜いた。

 海門の鎖を下ろす命令旗が上がった。