一秒の向こうに四十一年
【重力救難記録】
事故地点――ブラックホール観測環〈オルフェ〉
被災者――ナロア・ベク
救難責任者――イサン・ホルツ
観測艇の故障で、ナロアは強い重力井戸へ取り残された。
彼女の一秒が、外側では六百四十八日になる。
通信窓が開いた最初の瞬間、ナロアは二十八歳だった。
画面のイサンは同じ年だった。
「必ず引き上げる」
「待ってる」
「そっちでは、すぐだ」
「なら、遅刻しないで」
次の通信は、ナロアにとって七秒後。
イサンは四十歳になっていた。
救助装置はまだ完成していなかった。
彼は白髪を指して笑った。
「少し遅れた」
ナロアは冗談に返事ができなかった。
さらに八秒。
イサンは五十四歳。
彼は結婚し、息子がいると話した。
妻は救助計画の技師で、三年前に病気で亡くなった。
「待っていたんじゃなかったの」
ナロアが訊く。
「七年は待った」
「私には四秒」
「僕には七年だった」
責められなかった。
泣く時間さえ、彼の世界では何か月にもなる。
最後の通信から六秒後、救助索が届いた。
ナロアが艇へ引き上げられるまで、外では四十一年が過ぎていた。
救護室へ、六十九歳のイサンが杖をついて来た。
ナロアは二十八歳のままだった。
二人は抱きしめた。
彼の身体は記憶より小さく、腕は驚くほど細かった。
「続きから始められる?」
ナロアが訊いた。
イサンは長く黙った。
「僕には、君と別れてからの人生がある」
「私は別れたつもりがない」
「知ってる。だから運命は残酷だ」
彼の家には息子夫婦と孫がいる。
亡き妻との四十年近い記憶もある。
ナロアが恋人へ戻れば、そのすべてを途中の寄り道にしてしまう。
イサンもまた、若い彼女へ老いた自分の残り時間を預けられなかった。
二人は観測環の展望室で一日を過ごした。
ナロアには事故の翌日。
イサンには四十一年後の再会だった。
「待たなくてごめん」
「生きていてくれて、ありがとう」
「それは別れの言葉?」
「たぶん」
夕方、ナロアは新しい訓練施設へ、イサンは家族の待つ地球便へ向かった。
搭乗口で彼が振り返る。
「君の一秒を、僕は一生忘れなかった」
「私は、あなたの一生を知らないまま好きだった」
二人は手を振った。
運命のいたずらは、距離ではなく時間を二人の間へ置いた。
再会はできた。
生還もできた。
ただ、恋人だった二人だけが、同じ年齢の同じ明日へ帰ることはできなかった。