一秒差の落札

時計修理店の閉店後、花園井瑠花音は鷹ノ巣慎理へ婚約指輪を返した。

「晶悟さんなら、海外を飛び回って資産を運用しているの。あなたは一日中、壊れた時計を直しているだけでしょう」

葛城野晶悟は、金色の腕時計を見せた。

「これは限定十本。君の店では一生扱えない品だ」

慎理は時計を一目見て、何も言わなかった。

三日後、二人は高級時計の国際競売会へ招待された。晶悟が投資顧客へ本物の目利きを示すためだった。

会場中央には、文字盤に銘のない一本が展示されていた。司会者が作者を呼ぶ。

壇上へ上がったのは慎理だった。

彼は修理人ではなく、予約二十五年待ちの独立時計師であり、自社ブランドの全株を持つ創業者だった。利益の半分を若い職人の育成へ回し、自分の生活だけは祖父の店を継いだころから変えていなかった。店舗で他社製品を直していたのは、壊れ方から次の機構を学ぶため。王族や美術館から依頼が入り、一本の価格は億単位だった。

競売に出たのは、慎理が十年かけて作った天文時計。開始一分で三億円を超え、最終的に八億二千万円で落札された。

瑠花音は息をのむ。

晶悟は自分の時計を持ち上げた。

「資産価値なら、僕の限定品も負けない」

競売会社の鑑定士が裏蓋を確認した。

「この番号は存在しません。外装だけを似せた模造品です」

さらに晶悟が顧客資金で購入したと申告した時計の多くも、偽物か借用品だった。監査担当が彼へ連絡し、資産運用会社の職務停止を告げる。顧客からの返還請求も始まっていた。

瑠花音は慎理の袖をつかんだ。

「私は派手な生活が欲しかったわけじゃない。あなたがそんな人だと知らなくて」

慎理は競売時計の秒針を見た。

「僕の仕事を“壊れ物を直すだけ”と知った上で、離れたんだよ」

槌が最後に鳴り、落札額が確定する。晶悟の偽物は証拠袋へ入り、慎理の時計は美術館の所蔵品となった。

二本の時計が同じ秒を刻んだ瞬間、瑠花音が選んだ高価そうな未来だけが、一秒で値段を失った。