七分だけのかけそば
伊那路彩世には、乗り換え駅で必ず立ち寄る立ち食いそば屋がある。
ホームの端、階段の陰にある「峠屋」。自宅へ帰れば夕飯がある日も、職場で昼を食べた日も、少し疲れたときは暖簾をくぐった。
注文はかけそば。
葱を多めにしてもらい、七分ほどで食べ終える。
店主とは「いつもの」「はい」だけで通じた。名前も職業も訊かれない。
彩世はその短さが好きだった。
ある火曜、仕事で失敗した。
取引先へ送る資料の数字を一桁間違え、上司と同僚に修正を手伝ってもらった。大事にはならなかったが、帰りの電車でも何度も謝罪文を考えていた。
峠屋へ入ると、店主が言った。
「今日は天ぷら、半分残ってる」
「かけで」
「半分は売れないから、載せるよ」
小さな野菜かき揚げが、湯気の上へ置かれた。
「サービスですか」
「廃棄回避」
彩世は礼を言わず、箸を取った。
出汁はいつもより少し濃く感じた。
かき揚げの端が汁を吸い、玉葱の甘さがほどける。
隣では作業着の男性が、冷たいそばを急いで食べている。後ろでは電車の発車ベルが鳴る。
店内に長居する人はいない。誰も彩世の落ち込みへ気づかず、気づいたとしても触れない。
半分食べたところで、店主が鍋を見ながら言った。
「出汁、今日は少し薄かったか」
「私は濃く感じます」
「疲れてると塩が分かる」
「そうなんですか」
「知らない。今考えた」
彩世は笑ってしまい、口の中の葱を慌てて飲み込んだ。
七分を少し過ぎて、椀が空になった。
失敗が消えたわけではない。明日は報告書を書き直す必要がある。
それでも、謝る言葉以外のものが体へ入った。
会計を済ませ、暖簾を出る。
店主は次の客へ「いつもの」と声をかけた。
彩世だけの場所ではない。同じ七分を借りる人が、毎晩入れ替わる。
ホームへ上がると、電車が一本発ったあとだった。
次は五分後。彩世は急がず、ベンチへ座った。
上着には出汁と揚げ油の香りが残り、腹の奥が温かい。
家にも職場にも持ち込めなかったため息を、峠屋の湯気が一椀ぶんだけ預かってくれたようだった。