三人目の筆跡
新人研修の休憩中、依子は一人だけ輪に入れずにいる社員を見つけた。
声をかける前に、机に置かれた三色ボールペンが目に入り、高校時代の交換日記を思い出した。
依子と奏和は、中学からの親友だった。高校でも同じクラスになり、赤いノートを回した。二人にしか分からない冗談と、互いの悪口で頁はすぐ埋まった。
二年の秋、その余白に、知らない筆跡が現れた。
〈二人とも、数学の答えが違います〉
最初は誰かのいたずらだと思った。次の週には、喧嘩した二人の文章の間に、
〈依子さんは謝りたい。奏和さんは先に謝ってほしい。だから今日は私が預かります〉
と書かれていた。
日記は翌日、本当に戻ってこなかった。
放課後、二人で教室を探すと、窓際の一番後ろに座るナズナが、赤いノートを胸に抱えていた。いつも一人で本を読んでいる子だった。
「勝手に読んだの?」
依子が責めると、ナズナは青ざめながらうなずいた。
「机から落ちて、閉じようとしたら名前が見えて。それから……二人がうらやましくて」
奏和も怒っていた。けれどナズナが泣くのをこらえながら差し出した頁には、二人が互いに謝れない理由が、驚くほど正確に書かれていた。
その日、依子は初めて奏和に「置いていかれそうで嫌だった」と言えた。奏和も「なんでも分かってる顔をされるのが嫌だった」と答えた。
帰り際、奏和が日記をナズナへ押しつけた。
「読んだ罰。次、あんたが書いて」
ナズナは目を丸くした。
赤いノートには、それから三つの筆跡が並んだ。
三人は卒業後、別々の町へ行った。毎日連絡を取る関係ではない。それでも、依子の結婚式では二人が左右に立ち、同じ赤いノートへ祝辞を書いてくれた。
休憩室で、輪の外にいる新人は、紙コップの縁ばかり見ていた。
依子は空いた椅子を引き、三色ボールペンの赤を出す。
「今、研修メモを三人で回してるんだけど」
本当は、まだ二人だった。
「次、書いてみる?」
新人が顔を上げた。
依子は椅子を一つぶん、輪の外へずらした。そこからなら、入るのではなく、輪を広げられる気がした。