三円の残業
神代詞子が評価面談へ持ち込んだのは、一人分の給与明細だった。
人事給与チームに配属されて半年。月末処理は毎回締切ぎりぎりで、評価表には〈速度不足〉とある。
「確認に時間をかけすぎる。今月も、三円の差額で全体を止めたよね」
上司は苦笑した。問い合わせた社員は、残業代が自分の計算より三円少ないと言った。多くの人なら誤差として閉じる額だった。だが、その社員は勤務日ごとの時刻を付箋に書き、何度計算しても合わないと謝りながら問い合わせてきた。
詞子は勤務記録を一日ずつ計算し直した。システムは日ごとの残業代を一円未満で切り捨て、それを月末に合計している。就業規則は、月の総時間に単価を掛けて最後に丸める方式だった。一人では三円。全社員へ広げると、今月だけで四千円を超える。夜勤が多い人ほど差額は大きく、過去六か月までさかのぼれば、最も少なく支払われた人は千円を超えていた。
「次月に調整すればいい。今月を開き直す方が手数が大きい」
「問い合わせた人だけ直すと、気づかなかった人は少ないままです」
詞子は修正版の計算式と、再発防止の確認手順を示した。後輩には、差額が小さいときほど計算順を確認するよう伝え、問い合わせを〈解決済み〉にしないで残してもらった。さらに再計算を二人で分担し、給与日を動かさず差し替えられる時刻まで逆算した。誰かの細かさを、面倒という言葉で消さないためだった。
上司は評価表を閉じた。
「正しさだけでは、給与日は守れない。細部に時間を使い続ければ、別の誰かの処理が遅れる。その両方を直す手順が必要だ」
その通りだと詞子も思った。だから、処理を速くするだけの目標は選ばなかった。
社内異動の申請書を開き、希望先に〈労務コンプライアンス〉と入力する。添付するのは、三円の明細と全員分の再計算結果。最後に、今月の給与データを修正版へ差し替えた。
締切まで残り九分。詞子は上司ではなく経理責任者を宛先に加え、〈確定処理を申請〉を押した。