上の段から送る

染谷文花は、社内公募の応募文を二か月保存していた。新しい部署では企画も書ける。けれど今の総務なら大きな失敗はしない。応募ボタンを押す直前になると、「経験が足りない」という一文を見つけた気がして、下書きを閉じた。同僚の申請書なら、強みを見つけて言葉にできる。去年も二人の推薦文を整え、どちらも異動が決まった。文花だけが「もう少し準備してから」と同じ席に残った。安全な場所は、選ばなかった結果ではなく、選び続けた場所になっていた。以前、自分が出した改善案を上司が会議で発表したときも、文花は訂正しなかった。表に出なければ失敗もしない。その代わり、成功したときの名前もいつも別の人のものになった。

資格講習の二週間、文花は二段ベッドのある研修寮へ入った。上段を使う早坂綾芽は、地方を回るダンス講師だった。夜になると腹ばいで床へ腕を垂らし、スマートフォンを逆さに見ている。

文花がベッドの下で応募文を直していると、綾芽が天井から訊いた。

「送らない文章って、どの高さに置くと軽くなると思う?」

「高さで変わるものですか」

「知らない。今夜だけ寝る場所を交換しよう」

綾芽は梯子を降り、枕を抱えて下段へ潜った。

「送るかどうかは、上で決めて」

文花は断ろうとしたが、綾芽はもう目を閉じていた。

梯子は思ったより細く、文花は途中で一度足を止めた。綾芽は下から手を貸さず、布団を整える音だけを立てていた。上段は天井が近かった。薄いマットが身体の向きをそのまま返し、いつもの下段より逃げ場がない。その窮屈さが、かえって考えを一つに絞った。白い塗装に細いひびがあり、枝分かれした道のように見える。落ちそうで落ちない距離から、床の鞄や靴が小さく見えた。いつも安全だと思っていた下段も、ただ低い場所を選んでいただけかもしれない。

スマートフォンを開く。応募文の最後には「挑戦したいと考えています」と書いてある。「考えています」は何度読んでも、自分を文章の外へ置く言い方だった。

文花はそこを「挑戦します」に直した。読み返すと、強すぎる気がした。未熟に見える箇所も、説明不足の段落もある。直す場所はまだ見つけられる。

下段から綾芽の寝返りが聞こえた。明かりを消してと言われる前に、文花は親指を応募ボタンへ置いた。

確認画面を一度だけ見て、「送信」を押した。