上を向かない王子
剣術大会の決勝直前、第三王子の鼻から血が噴いた。
侍医見習いは王子の額を反らせ、鼻へ綿を詰めようとした。血は喉へ流れ、王子が咳き込み、白い試合着の襟まで赤く染まる。
給水係のエネオが、王子の肩を前へ押した。
「下を向くな、無礼者!」
近衛隊長の怒声に、エネオは首を振った。
「上を向くから飲み込んでいます。座って、少し前へ」
王子は咳の合間に頷いた。エネオは鼻骨ではなく、鼻孔のすぐ上の柔らかい部分を指で挟ませる。
「砂時計が落ち切るまで離さないでください」
一分ごとに侍医見習いが覗こうとする。エネオはその手を三度払い、王子にも指を緩めさせなかった。
五分で、喉へ落ちる血が止まった。
十分で、受け皿へ垂れる赤い粒も消えた。
王子が指を離す。鼻孔から新しい血は出ず、咳もない。試合着の前面は白いままだった。
侍医見習いは「冷却魔法が効いた」と言い張ったが、魔法は一度も使われていない。使ったのは椅子一脚と、小さな砂時計だけだ。
試合係が開始を延期した時間は、わずか十二分だった。従来の処置なら着替えと吐血の掃除だけで半刻を失う。王子はその差を、自分の試合時計で確かめた。
受け皿に落ちた血は最初の二分で小匙三杯、その後は一滴も増えなかった。喉へ流れた血を吐くための中断もなく、王子の呼吸は試合開始までに整った。侍医見習いが用意した綿は六塊、冷却魔石は二枚。実際に使ったのはどちらも零だった。観客席の貴族たちは、王子が前を向いたまま止血した姿を十数人が同時に見ていたため、侍医の手柄へ書き換えることもできなかった。
王子は替えの上着を断り、そのまま決勝へ向かった。剣を取る前、観覧席の国王へ十本の指を見せる。
「十分。あの者が離すなと言った時間です」
決勝は王子が三合で勝った。だが歓声が最も大きくなったのは表彰後だった。
王子が自分の金杯をエネオへ渡し、近衛隊長へ命じたのだ。
「訓練場の救護係を、血を喉へ流す者から替えよ」
新しい任命札には、『王立競技場応急補助官エネオ』と刻まれていた。