九時三分のエレベーター
「九時三分のエレベーターは空いてますから」
吉岡慧にそう教えられてから、奥村沙耶は毎朝その時刻に一階へ着くようになった。
実際、いつも空いていた。乗っているのは吉岡だけで、彼の手にはブラックコーヒーと、沙耶が好きな無糖の紅茶。紅茶を渡す理由は「買ったら二本出てきた」「新商品の調査」「自分には甘かった」と毎回違った。
沙耶も気づかないふりをした。二人きりの十二階までを壊したくなかった。
その日が、最後の九時三分だった。沙耶は翌週から半年間、顧客先へ常駐する。出社時間は八時、駅も反対方向になる。
一階ロビーへ走り込むと、エレベーターの扉が閉まりかけていた。けれど隙間から吉岡の手が伸び、開くボタンを押した。
「間に合った」
「今日で最後なのに、遅刻するところでした」
「最後にしなければいいでしょう」
箱が上がり始める。彼の手には、いつもの紅茶が二本あった。沙耶が一本受け取ると、缶は少しぬるい。ずっと待っていた温度だった。
「顧客先は、八時四十分に最寄り駅です」
「知ってます」
「どうして?」
「常駐案内、僕も確認したので」
十二階に着いても、吉岡は降りなかった。扉が閉じ、エレベーターは誰かに呼ばれて下へ向かう。彼はスマートフォンを差し出した。個人用のカレンダーに、翌週月曜、八時三十五分。「駅ホーム」とだけ書かれた予定がある。
「僕の乗り換え、少し変えれば同じ駅を通れます」
「毎朝ですか」
「嫌なら月曜だけにします。嫌でなければ、火曜も」
沙耶は招待を承諾し、予定を「駅ホーム」から「待ち合わせ」へ書き換えた。吉岡の目が、驚いたあと柔らかくなる。
一階へ戻った扉が開いた。出勤してくる社員たちの前で、彼は一度ためらい、それから沙耶の鞄を持つのではなく、手を取った。人波に押されても離れないように。
「九時三分、空いていたわけじゃないんですね」
「はい」
「私のために?」
「沙耶さんが来るまで、開けていました」
毎朝の偶然は、彼が守っていた約束だった。まだ名前さえついていなかった約束を、今度は二人で予定にする。
翌週月曜、八時三十五分。九時三分ではないエレベーターの外で、二人の朝が始まる。