乾かない一本
閉店間際のパン屋で、鷲尾理央奈のからし色の傘が、紺色の傘に取り替わっていた。
朝から降っていた雨は、夜になって強くなっている。傘立てへ触れた可能性があるのは、同僚の石動眞白、常連の葛西慎吾、材料を届けた今泉千明の三人だった。
葛西は食パンを買って帰り、今泉は小麦粉の袋を倉庫へ運んだ。眞白は奥の発酵室にいるが、「傘なんて見ていない」と答えた。
残された紺色の傘の持ち手には、薄く小麦粉が付いている。レジ横の籠には、理央奈の傘に掛けていた黄色いカバー。発酵室の前だけ、天井から落ちた雨水が途切れ、床に丸い乾いた跡があった。
理央奈が扉を開けると、からし色の傘が室内で大きく開いていた。真下には、焼成前の細長いパンが十二本並ぶ。
昼過ぎ、屋根のつなぎ目から水が漏れた。眞白は自分の傘を開こうとしたが、紺色の傘は骨が弱く、すぐ裏返った。そこで理央奈の丈夫な傘を使い、代わりに自分の傘を傘立てへ置いたのだという。
「言えばよかったでしょう」
「このパン、あなたが考えた配合だったから」
十二本は、今日で店を辞める高校生アルバイトへの贈り物だった。進学で町を離れる彼が、まかないで一番好きだと言った蜂蜜パン。理央奈は早朝から生地を仕込んだが、忙しくて最後まで見届けられなかった。
眞白は以前、理央奈が何でも準備しすぎることを「心配性」と笑った。けれど父親の入院で何度も早番を代わってもらったこの三か月、理央奈の準備に助けられていた。
「俺の事情には気づくのに、自分の傘が濡れることは気にしないから」
眞白は開いた傘を見上げた。
「せめて今日は、こっちが守る側になりたかった」
傘の表面には、天井から落ちた水滴が休みなく弾けていた。布は濡れている。でもその下のパンは、ふっくら膨らんでいる。
焼き上がった一本を、理央奈は半分に割った。湯気と蜂蜜の香りが立つ。片方を眞白へ渡し、自分も端をかじった。
「次からは、傘より先に相談してください」
温かな甘さが、雨音より長く口に残った。