亀の返事は一時間後
細蟹庄吾は、商店街で時計修理をしている。
遅れた針を直し、止まった振り子を動かし、毎日何百もの秒を正しい場所へ戻す。店を閉めたあとも、作業台の時計が一秒ずつ鳴るので、休んでいる気がしなかった。
相棒は、二十年飼っている陸亀の半刻だ。
半刻は人の言葉を理解し、心で返事をする。ただし、一時間に一音しか喋れない。
最初に気づいたのは、庄吾が「水、替えるか」と訊いた日のことだった。
正午に『か』、一時に『え』、二時に『ろ』と届いた。
「三時間も待たせて命令か」
半刻はゆっくり瞬きをした。
ある冬の日、庄吾は古い柱時計の修理に取りかかっていた。
持ち主は「急がなくていい」と言ったが、庄吾はその言葉を信用しない。急がなくていいものほど、早く終わらせなければ落ち着かなかった。
夜八時、半刻が作業台の下で首を伸ばした。
『や』
「何だ」
九時。
『す』
「安い? 修理代の話か」
十時。
『め』
庄吾は手を止めた。
「三時間かけて、それ?」
半刻は前足を一歩進めた。
庄吾は笑い、椅子から立った。肩が固まり、指先が冷えている。柱時計はまだ分解したままだったが、明日になっても逃げない。
やかんを火にかけ、番茶を淹れた。湯気に焙じた葉の香りが混じる。
半刻の飼育箱を掃除し、温めた石の上へ戻す。亀の甲羅へ手を置くと、思ったよりゆっくり熱が伝わった。
「時計屋が休んだら、時間が止まると思ってた」
半刻は何も言わない。次の一音は十一時だからだ。
庄吾は店内の時計を一つずつ止めた。
商品ではなく、音の大きい見本だけ。最後の振り子が黙ると、店は雪の中のように静かになった。
十一時、半刻の声が来た。
『よ』
「やすめよ、だったのか」
四時間がかりの命令に、庄吾はまた笑った。
それから閉店後は、見本の時計を三台だけ止めるようにした。
ある夜、庄吾が「ただいま」と飼育箱へ声をかけると、半刻は九時に『お』と言った。
十時には『か』、十一時には『え』。
残りを待たず、庄吾は布団へ入った。
翌朝、甲羅を撫でると、心の奥に遅れて『り』が届いた。
店には朝の番茶と木箱の乾いた匂いが満ち、急がない返事ほど長く温かく残った。