二度訳した金貨三万枚
碧生が交易裁判所へ呼ばれたのは、王国が金貨三万枚を失う判決の直前だった。
海洋国との契約書には、こう訳されている。
『破損品の代金は、買い手が全額負担する』
船団は嵐で沈み、王国側へ請求書が届いた。署名済みだから覆せない、と商務官たちは青ざめている。支払期限は日没。印を押せば、今年の橋と診療所の建設費がすべて消える。
「新人に契約が読めるものか」
主席翻訳官が羽根ペンを置いた。
碧生は原文と訳文を見比べなかった。まず王国語の訳文だけを、草稿を見ていない別の書記に海洋国語へ訳し戻させた。そして原文と二枚を並べる。元の単語を知る者が補ってしまわないよう、情報を切り離したのだ。
原文にある主語は『運送人』。
訳し戻した文の主語は『買い手』。
一語だけが違っていた。傍聴席の商人たちがざわめき、裁判官は鐘を一度鳴らして静める。碧生は二つの主語を指し示したまま、余計な推測を口にしなかった。
「訳文をもう一度戻すと、勝手に変わった場所が浮きます」
碧生はそれ以上説明せず、主席翻訳官が作った過去の草稿を机へ置いた。最初の草稿では『運送人』だった。最終版だけ『買い手』に変わり、余白には海洋商人の印がある。訂正箇所の筆圧だけが濃く、書記台帳には主席翻訳官が一人で夜間入室した時刻も残っていた。
裁判官が主席翻訳官を見る。
「訂正料として、いくら受け取った」
男の顔から血の気が引いた。
海洋国の代理人は契約の原文を確認し、顔色を変えた。自国の運送会社へ使者を走らせ、請求書を引っ込める。逆に運送会社が王国へ金貨三万枚を払うことで決着する。書記が数字を読み上げると、傍聴席から低い歓声が湧いた。橋十二本と診療所三棟の建設札が、廃棄箱から机へ戻される。
碧生は二枚の翻訳を重ね、ずれた主語へ赤い丸をつけた。
商務卿がその紙を取り上げる。
「今後、十万枚を超える契約は必ず二度訳す。最初の担当者とは別の者がな」
主席翻訳官の銀章が外され、机の上で転がった。
商務卿はそれを拾わず、新しい金章を碧生の胸元へ留める。
「王国契約監査官。三万枚を守った者に、次の契約も任せる」