五月の歯ブラシ

五月十日の夜、有馬千紘は洗面台の歯ブラシを二本とも抜いた。

その日の午後、余命は夏を越えるかどうかだと聞いたばかりだった。

病院から戻る途中、ドラッグストアへ寄ったわけではない。替えは棚の上にずっとあった。白と黄色の二本組。月の最初の日に交換するつもりで買い、五月も十日を過ぎている。

恋人はまだ帰っていなかった。洗面台には、黄色い柄が右、白い柄が左。決めた場所は反対なのに、朝になると必ず入れ替わる。歯磨き粉は真ん中から潰され、蓋には白い筋が固まっていた。千紘が端から巻き直しても、翌朝にはまた元へ戻る。恋人は色を覚えておらず、千紘も最近は注意しなくなった。

診察室では「大切な人と相談して」と言われた。何を相談するのか、項目が多すぎて聞けなかった。治療、仕事、住む場所。帰りの電車で考えたのは、古い歯ブラシをいつ捨てるかだけだった。

二本をコップから抜く。毛先は外へ開き、白いほうには薄く口紅の色が残っている。どちらが自分のものだったか、もう確信がない。恋人のほうが口紅を濃く塗る日もあるので、手掛かりにもならなかった。

新品の包装を背から剥がす。硬い透明ケースがぱきりと鳴った。黄色を右へ、白を左へ置きかけ、千紘は止めた。今までどおりなら、明日の朝には逆になる。

油性ペンで、黄色の柄の裏へ小さな丸を一つ書いた。恋人は丸、千紘は何もなし。色ではなく印なら間違えない。歯ブラシに名前を書くほどではない二人には、そのくらいがちょうどよかった。

古い二本をごみ箱へ入れる。柄が縁に当たり、一本だけ斜めに立った。押し込もうとして、千紘はやめた。蓋を閉めれば見えない。

スマートフォンが鳴った。

〈もうすぐ帰る。プリンいる?〉

千紘は〈二個〉と返した。送信してから、二個食べる意味に見えたかもしれないと思ったが、訂正しなかった。

コップの底には薄い水垢があった。千紘はスポンジで一周だけこすり、すすいで水を拭く。新しい二本を立てると、まだ乾いた毛先がわずかに触れた。千紘は黄色い柄の丸を正面に向け、コップをいつもの位置へ戻した。