井戸の銀貨を投げない
エルナが七歳の手に戻ったとき、掌には冷たい銀貨があった。
村の成人前祝福。古井戸へ銀貨を投げ、願いを一つ告げれば、子供には才能が授かる。
祭司ドロムは白い袖を広げ、子供たちを見下ろした。井戸の周囲では、名を失った大人たちが無言で松明を持っている。前の人生と同じ言葉を唱えた。
「願いを一つ。銀貨を井戸へ。名を代価に、天は応える」
子供だったエルナは「大魔法使いになりたい」と願い、銀貨を落とした。
確かに魔力は得た。だが名を失い、誰にも呼ばれない下働きとなった。ドロムだけが彼女を命令でき、二十年間、エルナの魔力を神殿へ吸い上げた。同じ儀式を受けた子供たちは、願いを得るほど声と顔を薄くし、最後には村人の記憶から消えた。
死の間際に読んだ古文書には、井戸は願いをかなえる神ではなく、契約を記録する精霊だとあった。
銀貨が井戸の縁で光る。
「さあ、投げなさい」
エルナは拳を閉じた。
「投げません。契約の全文を先に見せてください」
村人がざわめく。ドロムの笑顔が引きつった。
「子供が神を疑うのか」
「名を代価にするなら、誰が名を受け取るの? 天ですか、あなたですか」
エルナは銀貨を井戸へ落とさず、水面に映るよう傾けた。
月光を受けた銀貨から、細い文字が空中へ浮かぶ。
《受領者――祭司ドロム》
《願力配分――契約者一、管理者九》
村人たちの声が消えた。
ドロムが銀貨を奪おうとする。エルナは一歩退き、契約の末尾を読み上げた。
「未投下の銀貨を持つ者は、管理者を拒否できる」
「黙れ!」
「拒否します」
銀貨が白く燃えた。ドロムの指に並んでいた子供たちの名前が黒い煙となって剝がれ、井戸へ戻る。
水底から、長く眠っていた声が響いた。
『拒否を受理。名の所有権は本人へ返還する』
前の人生では、儀式の直後にエルナの名前が村の名簿から消えた。
祭司の帳面がひとりでに開き、文字が書き換わる。
《祝福者 エルナ》
《管理権 本人》
井戸の精霊は、彼女を「娘」でも「器」でもなく、初めてこう呼んだ。
『選ぶ者エルナよ。次の願いは、代価なしで聞こう』