交換してください

妻を亡くしてから初めて乗った路線バスで、老人は窓際の席に座っていた。

次の停留所から、腹の大きな女性が乗ってきた。老人はすぐ立とうとしたが、膝が痛み、うまく力が入らない。

その向かいにいた作業着の若者が先に立った。

「どうぞ」

妊婦が礼を言って座ると、若者は老人へ向き直った。

「あなたも、僕と交換してください」

「私はもう座っている」

「窓際と通路側を。降りるとき、通路側のほうが楽でしょう」

老人はむっとした。

「年寄り扱いするな」

若者は頭をかいた。

「では僕の都合です。窓の外が見たいんです。今日は景色を見る余裕がなかったので」

嘘だと分かった。だが頼まれる形なら、受け入れやすかった。

席を交換すると、若者は老人の鞄から赤い狐の人形がのぞいているのに気づいた。

「それ、『きつねの郵便屋』ですよね」

老人は驚いた。

妻と二人で、児童館の読み聞かせに使っていた人形だった。妻が声を、老人が人形を担当した。今日は、相方を失ったため活動を辞めると伝えに行くところだった。

若者は笑った。

「子どものころ、毎週聞きました。僕、あの狐が手紙を届ける声をまねして、妹を寝かせてたんです」

「声を出していたのは妻だ」

「でも狐を歩かせたのは、あなたでしょう」

若者は次の停留所で降りた。窓から見たかった景色など、一度も見ずに。

児童館へ着くと、子どもたちが床へ座って待っていた。老人は辞任届を鞄へ戻した。

一人では、妻と同じ舞台はできない。だから最初に尋ねた。

「狐の声をやってくれる人はいるかい」

全員の手が上がった。

物語の途中、赤い狐は何度も違う声でしゃべった。高い声、かすれた声、笑って続かない声。妻の声はなかった。

それでも狐は、最後まで手紙を届けた。

帰りのバスで、老人は通路側に座った。妊婦が乗ってくると、今度は迷わず立ち上がった。

「交換してください」

「え?」

「私は立って、久しぶりに景色を見たいんです」

妊婦が笑って座った。

老人はつり革を握った。膝は痛んだが、赤い狐を抱えた腕は軽かった。

小さな親切は、席を一つ空けるだけではない。

その人が、もう一度向かう場所まで空けてくれることがある。