人格統合前、最後の個人通信
恒星船〈エウメネス〉の主任航法士エルサ・ヴェイドには、余命八十七日しかなかった。
高エネルギー粒子による神経崩壊。
治療法はない。
ただし彼女の脳を船の航法AIへ統合すれば、知識と判断は残せる。
恋人のトマル・シェンは、それを救命だと呼んだ。
「声も人格も再現できる。毎日話せる」
「私が船になるだけ」
「消えるよりいい」
「船の判断をする私が、あなたの恋人でもあると思う?」
統合後、エルサは三千人の生命を優先する。
トマル一人を特別扱いできない。
それでも彼は、同じ声が返るなら愛し続けられると言った。
統合準備の八十七日間、二人は航法AIへ彼女の記憶を移した。
星図、緊急時の癖、乗員の顔。
私的記憶の転送画面には、二人で過ごした九年が並んだ。
最初の口づけ。
無重力区画での喧嘩。
到着後、湖畔に家を建てる約束。
「全部入れて」
トマルが言う。
エルサは首を振った。
「私的記憶は削除する」
「なぜ」
「船になった私が、あなたの名前だけ特別な重みで呼んだら、乗員は私を信じられない」
「僕は」
「あなたは、船の声を恋人にし続ける」
統合前日、二人は観測窓の前で最後の個人通信を録音した。
エルサ:
「トマル。明日から船が私の声で話しても、それを私だと思わないで」
トマル:
「無理だ」
エルサ:
「では、恋人として命令します。私を船へ返して」
トマル:
「命令権はない」
エルサ:
「知ってる」
二人は笑った。
八十七日ぶりに、病気の話をしない笑いだった。
統合は成功した。
翌朝、船内放送がエルサの声で流れた。
『航路修正を開始します。全乗員は安全帯を確認してください』
トマルは制御室へ走った。
中央端末へ呼びかける。
「エルサ」
AIは一秒置いて答えた。
『登録にその名称はありません。私は航法統合系エウメネスです』
彼女の希望どおり、私的記憶はなかった。
「僕を知ってる?」
『機関主任トマル・シェン。乗員番号二一七』
「それだけ?」
『追加情報が必要ですか』
トマルは首を振った。
「いい。仕事を続けて」
船は彼女の判断で、星間嵐を避けた。
三千人が眠る夜、エルサの声は誰に対しても同じ温度で安全を告げた。
トマルは湖畔の家の設計図を削除しなかった。
ただ、到着後に建てるつもりはなかった。
恋人は死んだ。
船は生きている。
その二つを混ぜないことが、エルサが余命の最後に選んだ別れだった。
窓の外で航路が青く曲がる。
トマルは船へではなく、もう応答しない一人の女性へ、小さく言った。
「さようなら。よい航海を」