今日だけの家族データ
記憶補助装置が普及してから、認知症の人は朝ごとに〈家族データ〉を読み込めるようになった。
娘は母の装置へ、できる限り多くの記録を入れた。
〈あなたは七十九歳〉
〈夫は十二年前に死亡〉
〈子どもは二人〉
〈現在は支援住宅で暮らしている〉
〈この女性は長女。この男性は長男〉
読み込みが終わると、母は毎朝、夫の死を初めて知ったように泣いた。
「どうして誰も教えてくれなかったの」
娘はそのたび説明した。
「昨日も話したよ。装置にも入ってる」
母は泣き疲れ、昼まで眠った。
長男がデータを減らそうと言った。
「事実を隠すの?」
「毎朝、喪中に戻すのが事実なのか」
「忘れたままにするほうが残酷でしょう」
二人は装置の前で争った。
母がイヤホンを外した。
「私の話なのに、二人で決めるの?」
翌朝、三人で設定画面を開いた。
母が選んだのは、五つだけだった。
〈今日の日付〉
〈ここは安全な住まい〉
〈体調が悪ければ職員を呼ぶ〉
〈午後に家族が来る〉
〈知りたくないことは、今すぐ知らなくてよい〉
夫の死も、子どもたちの名前も外した。
「私たちまで消すの?」
娘が尋ねると、母は首を振った。
「来たときに教えて。機械から先に言われるより、あなたの顔を見て聞きたい」
午後、娘は母の部屋へ入った。
「こんにちは。私はあなたの娘です」
母はしばらく顔を見た。
「証拠は?」
娘は結婚写真ではなく、二人で作った不格好な湯呑みを出した。
「昔、一緒に焼きました」
「私は上手?」
「私よりは」
「では、娘らしい」
二人で笑った。
長男が来た日は、自分が息子だと名乗り、昔の失敗談を一つだけ話した。母がもっと聞きたいと言えば続きを話し、疲れたと言えばやめた。
夫のことを尋ねた日には、娘が手を握って伝えた。
母は泣いた。
けれどその悲しみは、装置が一方的に再生したものではなく、母が自分で扉を開けて受け取ったものだった。
家族データは、母を過去どおりに戻すためのものではなくなった。
毎朝、今日を始めるための短い地図になった。
母が娘を忘れた日は、娘も過去を証明しようとしなかった。
「今日は初対面でもいい?」
「ええ。では、お茶から始めましょう」
二人は何度でも、家族になる最初の日を選んだ。