余白のない手帳
「その手帳には、何も書いていない」
取調室でそう言ったのは、捜査一課の刑事・梶谷伸哉だった。
十八年前、暴力団の資金係が行方不明になった「冬椿事件」。梶谷は当時、失踪者を使っていた捜査員で、いまも現職の班長だ。監察官補の御代川環は、押収庫の奥から見つかった黒い手帳を机に置いた。全頁が白紙。だが小口には、何度も開いた指の脂が残っている。
「情報屋は、消える前夜にあなたへ電話した」
「通話記録だけだ。内容はない」
「内容は手帳にあります」
環は斜めから紫外線を当てた。紙面に筆圧の凹みが浮かぶ。上の頁に書いて破り取った文字が、十数枚下まで残っていた。
〈梶谷刑事に渡した拳銃で、県警の人間が撃った〉
梶谷は椅子にもたれた。
「復元不能だ。読みたいものを読んでいるだけだ」
「同じ文が三度あります。最後には日付と、警察無線の呼出符号も」
それは現在、組織犯罪対策部長が若手時代に使っていた符号だった。
梶谷はしばらく黙り、やがて小さく息を吐いた。
「情報屋は二重に金を取っていた。消されたのは自業自得だ」
「殺害を知っていて、失踪扱いにした」
「知ったのは後だ。報告すれば、県警と組の癒着が全部出る。潜入中の捜査員も死ぬ。だから手帳の頁を抜いた」
「遺体の場所は」
「言えば、お前は私を逮捕するのか」
「今日は聴取だけです」
「なら、ここで終われる」
梶谷は机の録音停止ボタンを指した。取調室の外には、環の上司が待っている。提出前に「誤読」と直せば、昇任は守られる。逆に梶谷の供述を残せば、情報屋を切り捨ててきた捜査手法そのものが問われる。
梶谷は笑った。
「正義は、組織の外ではただの私刑だ」
環は白紙の手帳を閉じた。表紙の角に、失踪者の娘が幼い字で書いた名前が残っている。父親がいつか返すつもりだった手帳だ。
環は録音停止ではなく、供述確定のボタンを押した。赤い表示が点灯する。
「遺体の場所を聞く前に、あなたが知っていると記録します」
そして手帳を中央に置き、退出用の扉ではなく、監察室へ直結する証拠搬送口の蓋を開けた。