入口に置かれた大海
「濡れた靴は入口でお脱ぎください」
潮の満ち引きで一階が少し傾く宿〈青藻屋〉を、エルフの女主人ナディアは一人で切り盛りしている。網戸を直し、貝殻の砂を掃き、魚人客には塩水の桶を用意する。海辺ではありふれた、世話焼きな宿主だった。浜の者は、百年前の大津波でもこの宿だけ流されなかったという話を笑い話にしていた。ナディアは否定も肯定もせず、毎朝同じ柱を磨いている。
魚人の少年ポロは、嵐で家族とはぐれ、その宿に泊まっていた。眠れずに玄関へ降りると、外の海面が壁より高く持ち上がっていた。沖にいるはずの灯台が水の壁の中で逆さに揺れ、魚たちは何かから逃げるように浜へ打ち上がる。
扉を突き破ったのは波ではない。沈没船を百隻まとった魔物〈深潮の主〉だった。水の腕を廊下へ伸ばし、宿ごと沖へ引きずろうとする。客室のランプが一斉に揺れた。
ナディアは寝間着の上に前掛けを結び、古いモップを取った。
「床が濡れますね」
ひと拭きすると、押し寄せた海が薄い水膜になった。二度目はない。ナディアはモップを桶の上で絞る。深潮の主も、沈没船も、暴風も、布から落ちる一筋の水へ押し込まれた。ぽちゃん、と桶が鳴ったとき、外は星空だった。桶の中では、深潮の主が指先ほどの渦になって暴れたが、ナディアが石鹸を一片落とすと、白い泡になって消えた。
ポロは鰓を震わせた。桶の底に一瞬だけ、海より深い魔法陣が開き、その中心に大魔法使い〈潮返し〉の印が輝いたからだ。百年前、津波を一滴へ戻した者の印。その術者は長命のエルフだったと伝わるが、肖像画だけはなぜか現存していない。ポロは目の前の横顔から目を離せなかった。
「おばさん、いま海を……」
「廊下で転びますよ」
ナディアは桶の水を植木鉢へ注いだ。沈没船の木片は薪箱へ、黒い泡は石鹸で消し、扉の傷には同じ色の塗料を塗る。眠っていた客は、嵐が去ったことすら朝まで知らなかった。
翌朝、ポロの家族を乗せた船が穏やかな湾へ入ってきた。少年が駆け出すと、ナディアは玄関に残った小さな水跡を指し、昨夜と同じ口調で注意した。
「濡れた靴は入口でお脱ぎください」