全部乗るまで押しています

十二年前、男は古い市営住宅へ越してきた。

片腕には眠った幼い娘、足元には段ボール三箱。妻と別れ、親子二人で暮らし始める日だった。

エレベーターへ一箱載せるたび、扉が閉まりかけた。開ボタンへ戻ると、今度は廊下の箱から目を離すことになる。娘まで泣き始めた。

そのとき、ランドセルを背負った女の子が中へ入った。

「押してます」

「先に行っていいよ」

「全部乗るまで押しています」

女の子は指を開ボタンへ置き、男が三箱と娘を運び終えるまで待った。二分ほどかかった。

「ありがとう。何階?」

「八階。おじさんは?」

「同じだ」

女の子は笑った。

「じゃあ、今日から近所ですね」

男は、その短い言葉に救われた。新しい住まいを、家族が壊れたあとの避難場所だと思っていたからだ。

十二年の間に、娘は高校生になった。男は自治会の役を引き受け、廊下の電球を替え、重い荷物の住人が来ればエレベーターを待たせた。

あの日の女の子は進学で町を出た。母親だけが八階に残った。

ある冬の夜、男が一階へ降りると、閉まりかけた扉の向こうから「待ってください」と声がした。

開ボタンを押す。

大きな旅行鞄を引き、赤ん坊を抱いた女性が走ってきた。あの日の女の子だった。頬はこけ、左手の指輪は外されていた。

「すみません。先に行ってください」

男は答えた。

「全部乗るまで押しています」

女性は足を止めた。十二年前の自分の言葉を思い出したのだろう。赤ん坊を抱いたまま、声を上げずに泣いた。

男は理由を聞かなかった。旅行鞄を持ち、八階のボタンを押した。

「おかえり」

女性は何度か息を整えたあと、「ただいま」と言った。

翌朝、八階の廊下には赤ん坊の泣き声がした。男の娘が、お下がりの毛布を持って訪ねた。

この建物のエレベーターは古く、扉が閉まるのが少し早い。

けれど住人たちは知っている。

帰ってくる人が荷物を全部載せるまで、誰かが開ボタンを押していればいい。

家とは、扉が閉まる前に入れた場所ではない。

急がなくても、待ってもらえる場所なのだ。