共同キッチンの棚

葛西早苗のスマートフォンには、二件の入居案内が届いていた。

一件は、家具付きの静かなワンルーム。もう一件は、八人で台所を使う女性専用シェアハウスだった。

二十九歳でシェアハウスへ移ると言うと、友人は少しだけ間を置いた。「楽しそう」と言ったあと、「でも疲れない?」と付け足した。その心配は早苗にもあった。洗い物を放置する人、夜中に電話する人、冷蔵庫のプリンを食べる人。知らない他人と暮らす面倒は、想像するだけでいくらでも増えた。

ワンルームには、面倒がない。玄関を閉めれば、誰にも気を遣わず、何時に食べても眠ってもいい。今と同じ、完成した一人暮らしだった。

シェアハウスの内見では、案内役が共同キッチンの棚を見せた。透明な瓶に、米、紅茶、輪ゴム、なぜか小さな恐竜の人形が入っていた。

「共有物ですか」

「恐竜だけ共有です。たまに場所が変わります」

その説明が妙に可笑しくて、早苗は声を上げて笑った。奥の部屋から誰かが「今朝は冷蔵庫の上でした」と教えてくれた。

入居申込書には、〈共同生活で大切にしたいこと〉という欄がある。早苗は最初、「ルールを守ること」と書いた。しばらく考え、消した。

ワンルームを選べば、孤独を避ける努力をしなくて済む。シェアハウスを選べば、寂しくない保証はないうえに、面倒だけは確実に増える。

早苗は〈嫌なことを、嫌になる前に言うこと〉と書き直し、申込書を送った。

見学の帰り、早苗はワンルームの申込画面も開いた。審査項目は年収と勤続年数だけで、共同生活について書く欄はない。その簡潔さに安心し、同時に寂しくなった。シェアハウスでは、自分の機嫌まで他人に見える。隠せない暮らしを選ぶ覚悟は、家賃表には載っていなかった。

翌朝、入居規約が届いた。掃除当番は火曜日。早苗は早くも少し後悔しながら、予定表へ繰り返し登録した。

引っ越し当日、最初の箱には「共同キッチン」と記した。中身は自分のマグカップと、百円ショップで買った緑色の恐竜だった。