共同都市消去後
【共有現実レイヤー〈ノスタ〉削除開始】
レイヴァ・ノルとダジル・ペンは、九年間かけて一つの都市を作った。
現実の町へ重ねる拡張現実だった。
初めて口づけた高架下には〈雨宿り広場〉。
喧嘩して仲直りした食堂には〈停戦通り〉。
二人で迷った路地には、実際にはない海が見えた。
他人の目には、ただの道路と建物。
二人の端末を通したときだけ、町は記憶の色に塗られた。
別れを決めると、共同レイヤーは法律上削除しなければならない。
片方だけが所有すれば、もう片方の行動履歴と感情記録を私有することになるからだ。
削除前夜、二人は最後の散歩をした。
〈削除率 一二%〉
最初の喫茶店から、二人用の窓際席が消えた。
〈削除率 三七%〉
川沿いの桜が、出会った年の花びらを落とさなくなった。
〈削除率 六四%〉
駅の階段から、毎朝ダジルが待っていた半透明の姿が消えた。
「町って、こんなに普通だった?」
レイヴァが訊く。
「僕らが飾りすぎたんだ」
「戻したら、また好きになれるかな」
「町は戻せても、僕らは戻らない」
二人が別れる理由は、どちらかの心変わりではなかった。
レイヴァは現実より共有レイヤーの過去へ逃げ、ダジルは新しい出来事を追加するたび、古い記憶が薄まる気がして拒むようになった。
一人は未来を重ねたくなり、一人は過去を保存したくなった。
〈削除率 九一%〉
海のない路地から、波音が消えた。
最後に残ったのは、市の中心に浮かぶ小さな家だった。
二人がいつか住む予定で作った、現実には存在しない家。
窓の形も、本棚の位置も、飼う犬の名前も決めていた。
「ここだけ保存できない?」
ダジルが言う。
「誰が住むの」
「誰も」
「なら、家じゃなくて墓になる」
レイヴァは削除承認へ触れた。
ダジルも続いた。
〈削除率 百%〉
〈共同都市は存在しません〉
端末を外す。
町は同じだった。
道路も川も駅も、何一つ失われていない。
それなのに二人には、都市全体が更地になったように見えた。
「さようなら」
「うん」
二人は現実の交差点で別れた。
翌朝、レイヴァは駅の階段で無意識に足を止めた。
待っている姿はない。
ダジルも川沿いで、存在しない桜を見上げた。
削除されたデータは、わずか二・八テラバイトだった。
記録上、失われたのはその容量だけ。
けれど二人が歩けなくなった道は、町じゅうにあった。
失ったものの大きさは、消えた都市ではなく、同じ現実を以前と同じ意味で見られなくなった二人の世界そのものだった。