冷たいドアノブ

毬花は宿泊施設の清掃員として、毎日同じ順番で客室を回っていた。右端の部屋から始め、廊下を折り返し、最後に非常階段脇の物置を確認する。順番を崩すと、何かを忘れる気がする。清掃では誰より速く、客の忘れ物も小さな染みも見逃さない。その確かさを、表に出ないための理由にもしていた。

秋の終わり、連泊していた旅人が廊下にしゃがみ込み、すべてのドアノブに手の甲を当てていた。銀色の髪を三つ編みにし、首から方位磁針ではなく小さな温度計を下げている。

「何をしているんですか」

「部屋が、今日どちらを向いているか調べています」

毬花が笑うと、旅人は真顔で百七号室と百八号室の間を指した。

「迷ったら、冷たいほうのドアを開けてください」

「宿では勝手に開けないでください」

「では、あなたのドアで」

その日の夕方、支配人からフロントへの異動を打診された。人手不足の一か月だけ。接客が苦手な毬花は、考えさせてください、といつもの言葉を返した。以前、電話口で客の名前を聞き違えて笑われたことがある。それ以来、表に立つ仕事を避けてきた。考えると言いながら、断る理由を固めるのが彼女の癖だった。

仕事を終えると、旅人はもうチェックアウトしていた。部屋には何も残っていない。ただ、忘れ物確認表の裏に、丸いドアノブが二つ描かれていた。一つは「慣れている」、もう一つは「まだ触っていない」。

翌朝、支配人室の前まで来た毬花は、右手を上げて止まった。断るなら、今までどおり清掃用具室へ行けばいい。そこでは誰より手早く、忘れ物も見逃さない。フロントに立って言葉に詰まり、客を待たせる自分を想像すると、胃が縮んだ。

廊下には二つのドアがある。清掃用具室のノブは、朝日を受けてぬるかった。支配人室のノブは、窓から遠く、ひやりとしている。掃除の順番なら、冷たいものは最後に触る。それが毬花の決めた安全な手順だった。今日は、その順番を一つだけ逆にする。

旅人の言葉に根拠はない。冷たいほうが正しい保証もない。

毬花は手袋を外した。素手で冷たいノブを握り、「一か月だけ、やってみます」と言うために支配人室のドアを開けた。