冷めるまでの妻

田切峰夫は、妻の四十九日を終えた夜、台所で味噌汁を温め直した。

鍋を火にかけると、食卓に絢子が座っていた。

亡くなる前より少し若く、いつもの紺色の部屋着を着ている。

峰夫は椀を二つ出した。

絢子は首を振る。

「私は、あなたのが冷めるまで」

湯気の立つ椀を峰夫の前へ置くと、絢子の姿がはっきりした。

峰夫が一口すすり、息を吹きかけるたび、輪郭がわずかに薄くなる。

「猫舌だったよね、あなた」

「今夜は熱いままでいい」

峰夫は椀を両手で包んだ。

飲まなければ冷めないと思ったが、味噌汁はゆっくり温度を失っていく。

二人は、どうでもいい話をした。

町内会の回覧板がまだ届かないこと。

冷蔵庫の奥の梅干しは三年前のものだから捨てろということ。

峰夫が洗濯物を裏返しのまま干す癖。

「死んでまで小言か」

「死んだから急いでるの」

峰夫は笑えなかった。

絢子の病気がわかってから、峰夫は何でも代わった。通院の送迎、薬の管理、食事、入浴。

ただ一つ、絢子が望んだ旅行だけは断った。

「治ってから行こう」

それが励ましになると思った。

絢子は治らないと知っていた。峰夫も本当は知っていた。

「海、行きたかった?」

「行きたかった」

「言えよ」

「言った」

「もっと強く」

「病人に交渉力を求めないで」

椀の湯気は、もう細い。

「俺は、諦めたみたいで嫌だった」

峰夫は言った。

「旅行に行ったら、その先がないって認めるみたいで」

「その先、なかったわね」

「うん」

「でも、海はあった」

絢子は責めるようには言わなかった。

それがいちばん堪えた。

峰夫は味噌汁を一口飲んだ。

ぬるかった。

絢子の指が透け、テーブルの木目が見えた。

「今から行ってもいいかな」

「誰と」

「一人で」

「寂しいわね」

「寂しいよ」

「じゃあ、ちゃんと寂しがってきて」

峰夫は残りを飲み干した。

椀の底が見えたとき、向かいの席も空になった。

翌週、峰夫は二人分予約していた宿へ電話をかけた。キャンセルしたままだった部屋は、偶然一室だけ空いていた。

海辺で、峰夫は味噌汁の入った保温瓶を開けた。

熱いうちに半分飲み、残りは波を見ながらゆっくり冷ました。

隣のベンチには誰もいなかった。

それでも梅干しは捨てろ、と聞こえた気がして、帰宅するとすぐ冷蔵庫を片づけた。