冷凍庫の四角

円香の冷凍庫には、彼が作ったカレーが一食分だけ残っていた。透明な容器の蓋に「疲れた日の分」と丸い字で書いてある。別れてから一か月、円香はその四角を奥へ押し込み、見えないふりをしてきた。

彼は料理が得意だった。残業の日には食事を用意し、体調を崩せば買い物へ行った。友人はみんな、そんな人とどうして別れたの、と言った。円香はうまく説明できなかった。彼の優しさにはいつも結論がついていた。疲れているから今日は出かけないほうがいい。忙しいから転職はやめたほうがいい。心配だから位置情報を共有しよう。

善意を重いと感じた自分が間違っているのではないか。それが、円香の言えない悩みだった。

午前零時、ほかに食べるものがなく、とうとう容器を電子レンジへ入れた。回転が止まると、懐かしいガラムマサラの香りがした。容器の縁だけはまだ少し冷たい。

ひと口食べれば、味は完璧だった。にんじんは小さく、肉は円香が好きな薄切り。彼は本当によく知っていた。知っていることと、決めていいことを、二人とも混同していたのかもしれない。

円香は半分まで一気に食べた。おいしいと思うたび、別れを否定された気がした。だから急いだ。証拠を消すように食べれば、感謝もしなくて済む。

最後のひと口をすくったところで、手が止まった。もう満腹だった。彼なら「せっかく作ったんだから」と笑って食べさせただろう。その声まで正確に思い出せた。

円香はスプーンを容器へ戻した。おいしかった。助けられた夜もたくさんあった。それでも、食べきる義務まではない。優しさを受け取ったことと、これからも従うことは別だった。

残ったひと口に蓋をした。明日食べるか、捨てるかは、明日の自分が決めればいい。

空にならなかった容器を見ても、罪悪感はすぐには消えなかった。ただ、その感情に従ってもう一口食べることだけはしなかった。

蓋の文字を指でなぞり、円香はその上から新しいラベルを貼った。何も書かないまま、冷蔵庫へ移した。