冷蔵庫の二段目

井澄依織は、管理会社が来る正午までに、冷蔵庫の二段目だけを空にすると決めた。

この部屋は、亡くなった姉と二人で借りていた。姉が緩和病棟へ移ったあとも、依織は冷蔵庫を開けるたび扉だけ見て閉じた。二段目には、姉が買ったものが残っている。

管理会社からは、残置物があれば処分費がかかると言われている。依織はタイマーを二十分に合わせ、ほかの段へ目をやらないよう扉を大きく開いた。作業を始める前に、音声ファイルを再生した。姉が病室で録った「冷蔵庫整理」。長さは五分。声は乾いているが、内容は引っ越し前のチェックリストと変わらない。

『奥のヨーグルトは期限切れ。迷わず捨てる。依織、匂いで確認しようとしないこと』

依織は蓋を開けかけ、閉じてごみ袋へ入れた。音声の姉が、見えていたように笑う。

『梅干しは残す。あれは期限じゃなくて、強さで生きてるから』

赤い梅干しの瓶を扉側へ移す。棚の奥から、姉が飲み忘れた小さな栄養ドリンクも出てきた。未開封だが、期限は過ぎている。依織はラベルを読まずに袋へ入れる。次は、半分使った粒マスタード。姉は『それ、私しか使わないね』とつぶやき、少し黙ったあと、『捨てていい』と言った。

依織は瓶を握ったまま止まった。黄色い粒がガラスの内側に張りついている。退院したらソーセージを焼くつもりだったのだろう。けれど、今日するのは思い出を選ぶことではない。二段目を空にすることだ。

マスタードをごみ袋へ入れる。小さな瓶なのに、底へ落ちる音が重かった。

最後に残ったのは、紙袋に入ったレモン一個だった。

『レモンは、しわしわなら掃除に使える。切って、棚をこすると匂いが取れるよ』

依織はレモンを半分に切った。乾いた果肉を棚へ押しつけると、冷気の中に酸っぱい香りが広がった。瓶の跡、こぼれたジャムの跡、丸い輪染みを順にこする。

音声の最後で姉は、『二段目が終われば今日は合格』と言った。

タイマーが残り一分を示す。依織は濡れ布巾で棚を拭き、何も載っていない透明な板を奥まで差し込んだ。扉を閉める前に、梅干しの瓶だけが別の段で赤く見えた。二段目には冷気とレモンの匂いしか残っていなかった。