北を向かない望遠鏡
天文部の屋上部室で、望遠鏡は昼の市役所を向いていた。
江波戸湊が星図を畳みながら言った。
「宇宙開発会社、受かった。ただし法人営業」
鷺沢奈津は拍手したが、榊原新は接眼レンズをのぞいたままだった。
「ロケットを売るの?」
「衛星データの契約。星は見ない」
「でも宇宙の会社だ」
「新は大学院、どうした」
新はレンズから目を離した。
「辞退した。実家の船、父一人じゃ出せない。四月から漁師」
奈津が息を止める。新は恒星進化を研究したがっていた。夜明けまで観測し、誰より正確に記録をつけた。
「奈津は離島の小学校だっけ」
「うん。理科の先生。星が多い島らしい」
「一番、望遠鏡に近い仕事かもな」と湊。
「授業で使える予算、双眼鏡一つ分だけどね」
三人は笑った。笑うしかない種類の数字だった。
棚には、三人が初めて撮った土星の写真もあった。輪はぶれ、星は米粒ほどだったが、あの夜だけは全員が同じ未来を見ていた。
壁には、一年生のときに書いた進路希望が貼られている。湊は〈宇宙産業〉、奈津は〈未定〉、新は〈研究者〉。文字だけ見れば、湊だけが願いをかなえたように見える。
「これ、剥がそうか」と奈津。
「残していいよ」と新が言う。「次の部員が笑うだろ。希望って雑だなって」
湊は会社案内を机に置いた。表紙には青い地球が浮かんでいる。
「営業でも、いつか観測部門に移れるかもしれない」
「面接みたいな言い方だな」
「面接で何回も言ったから、本当になった気がする」
新は観測日誌の最終ページに、今夜の予定を書いた。北極星、午前零時十二分。だが彼は夕方の高速バスで港へ戻る。奈津は赴任先への船に乗り、湊は東京で研修を受ける。今夜、この屋上に来る者はいない。
三人は望遠鏡を格納しようとした。しかし固定ねじが錆び、市役所の方角から動かなかった。
「最後まで現実向きだな」と新が言う。
部室を施錠したあとも、レンズにはキャップがされないままだった。北の空ではなく、三人の採用書類を受け取った建物だけを、暗くなるまで見つめていた。