医院の裏口の鍵

真鍋史織は、父の歯科医院の裏口で鍵を外した。

銀色のプレートには、油性ペンで〈史織〉と書かれている。大学へ入った年、父が「いずれ院長になるんだから」と渡したものだ。

昼休みの診療室で、父は仕出し弁当の蓋を開けた。

「来月から火曜と木曜に入れ。患者にも顔を覚えてもらわないと」

史織は歯科医師ではない。受験を二度したあと、父に言われて歯科技工士の学校へ進んだ。それでも卒業後に選んだのは、義肢装具の会社だった。口の中ではなく、歩く人の足元を支える仕事をしている。

「医院には入らないよ」

父は煮物を箸で割った。

「資格を取り直せばいい。費用は出す」

「もう受験しない」

「うちは誰が継ぐんだ」

史織の席は、診療台が見える扉の正面だった。子どものころから昼休みに座らされ、患者が帰るたび「次はあなた」と言われた場所だ。

史織は鍵を弁当の横へ置いた。

「継ぐ人がいないなら、閉めるか、他の先生に任せるか、お父さんが決めて」

「家族の医院だぞ」

「お父さんの医院だよ。私の人生まで設備に数えないで」

父の箸が止まった。スタッフルームの時計だけが鳴る。

「母さんは、お前が白衣を着るのを楽しみにしてた」

「今の会社でも白衣は着る。でも、それを見せて納得してもらう必要はない」

父が選んだ白衣と、自分で選んだ白衣は、同じ色でも別のものだった。史織はその違いを写真で証明するつもりはなかった。

史織は弁当を食べ終え、空の容器を重ねた。父は鍵を見つめている。

「患者さんには、何て言えばいい」

「娘は別の仕事をしています、でいい。残念そうに言わなくていい」

父は長く息を吐き、鍵を掌へ載せた。

「装具って、歯より大きいんだな」

あまりに当たり前の言葉で、史織は少し笑った。

「ずっと大きいよ」

和解ではなかった。医院を継がないという事実を、父が初めて職業名のある形で見ただけだ。

史織は裏口から出た。扉は自動で閉まり、鍵はもうポケットにない。次に来るときは患者でも後継者でもなく、事前に連絡した娘として正面玄関を使うつもりだった。