午前三時の発酵

 佳純の休憩室には、パンが膨らむ音は届かない。

 その代わり、壁の向こうで大型ミキサーが回る。低く始まり、速度を上げ、一定になり、止まる。天井の換気扇は休まず回り、蛍光灯の白い光がステンレスの机へ細長く映っていた。

 午前三時。製パン工場の夜は、朝食の匂いで満ちている。

 佳純は帽子とマスクを外し、額に残ったゴムの跡を指でなぞった。冷蔵庫から水を出す。窓のない部屋なのに、雨の気配がした。搬入口のシャッターを叩く音が配管を伝い、遠い波のように響いている。

 机の上に、食パンの耳が二枚あった。ラップをかけた皿に、油性ペンで「試焼き」とだけ書かれている。形が少し歪み、端が濃く焼けていた。

 佳純は一枚を取った。

 工場では、同じ重さ、同じ幅、同じ焼き色に揃わないものは商品にならない。誰かが確認のために切り、残りをここへ置いたのだろう。歪んだ耳は、噛むと意外に甘かった。

 ロッカーの扉には、工場で焼いたパンの写真が何枚も貼られていた。どれも同じ丸み、同じ切れ目、同じ色をしている。けれどよく見ると、撮影した時間や置かれたトレーが違う。夜ごとに別の手が生地を触り、同じ朝を作ってきた証拠だった。佳純は自分の指先に残る小麦粉を、白い写真の端へ重ねて見た。

 ミキサーが止まる。

 換気扇の回転だけが残る。

 その静けさの中で、休憩室のドアが開いた。白い作業着の人が、顔を半分だけ入れた。

「次、四分遅れます」

「分かりました」

 業務連絡だけで、相手はすぐ戻っていった。ドアの向こうから、台車の車輪と短い笑い声が遠ざかる。

 佳純は二枚目のパンには手をつけなかった。

 去年まで、夜中に食べることを誰かに隠していた。体重や肌や生活時間について、正しいことを言う人は多かった。別れてからも、その声だけが内側に残り、休憩のたびに食欲を監視した。

 けれど誰もいない午前三時、歪んだパンは、ただ焼けた小麦の匂いがした。

 壁の小窓から発酵室の黄色い灯りが見える。丸めた生地が布の下でゆっくり大きくなっている。動いているようには見えないのに、時間の中で確かに変わっている。

 佳純は残った一枚へラップを掛け直し、水を飲んだ。

 次の工程まで四分余った。何かを急いで整えなくても、その四分は過ぎる。佳純は椅子に深く座り、換気扇の回転を一周も数えなかった。