午前零時の申込書
二十三時四十七分、奈都芽のパソコンには二つの画面が開いていた。
一つは、親友・灯子の結婚式のオンラインアルバム。純白のドレス、笑う両親、花びらの中で目を閉じた新郎。今日の午後、奈都芽もその輪の端で笑っていた。
もう一つは、海辺の町にある小さな商店街の「空き店舗チャレンジ利用申込書」。締切は午前零時。三か月だけ、家賃を抑えて店を試せる制度だった。
奈都芽は会社帰りに焼いた菓子を、休日のマルシェで売っていた。店を持ちたい、と言うと、周囲は夢として褒めてくれた。夢は褒めやすい。実行した人の赤字までは誰も引き受けなくていいからだ。
披露宴で灯子は、各卓を回りながら奈都芽の耳元で言った。
「私ね、結婚したかったっていうより、この人と失敗する方を選んだんだと思う」
照明が眩しくて、奈都芽はうまく返事ができなかった。
申込書の最終欄には「利用後の事業計画」とある。三か月後、売上が立たなければ撤退する。今の仕事は時短勤務へ変えられるか交渉が必要。貯金は減る。海辺の町までは片道一時間半。
奈都芽は空欄へ、数字を書いた。客単価、営業日、材料費。書くほど、夢は狭く、重く、格好悪くなっていった。
二十三時五十六分、灯子からメッセージが届く。
〈今日は来てくれてありがとう。次は奈都芽の番、とか言われても気にしないでね〉
続けて、店長からも来た。
〈来月のシフト希望、明日の朝まで。土日も入れるなら助かります〉
二つの未来が、通知欄に並んだ。誰かと家庭をつくる未来と、今の生活を守る未来ではない。奈都芽には、そのどちらもまだ選べない。ただ、今夜出さなければ消える入口だけがあった。
「保存」ではなく「提出」を押す。
送信完了の文字が出た瞬間、胃の奥が冷えた。嬉しさより先に、来月の家賃と上司の顔が浮かんだ。
奈都芽は灯子へ、〈私も失敗する方に申し込んだ〉と返した。すぐに意味不明な犬のスタンプが届いた。
午前零時を過ぎ、申込書は編集できなくなった。奈都芽は閉じずに画面を見ていた。取り消せないことが、初めて自分の未来に輪郭を与えていた。