卒業式の名無し
卒業式で歌う新曲には、作曲者名がなかった。
題名は『透明な教室』。送信者も不明。だが音楽教師の蛭川誉は、「作者の希望で匿名です」と断言し、自分が編曲したことだけはプログラムへ太字で載せた。
伴奏を担当する西ヶ谷朔は、イントロの休符に違和感を覚えた。全員が息を吸うたび、休符が一つ余る。譜面どおりなら間違いではない。しかし、その空白は短い、長い、短いと並んでいた。
客席の車椅子には、比留間鈴蘭がいた。病気で声を失い、視線入力装置でしか文字を打てない。教室で彼女の機械音声を真似する者がいても、蛭川は「悪気はない」と笑った。
鈴蘭が以前、朔へ一度だけ表示した言葉がある。
「名前はいらない」
朔は、優しい子なのだと思っていた。
演奏が始まる。Aメロは薄いピアノだけ。やがて合唱の背後から、教室の雑音が聞こえた。机を叩く音。車椅子のブレーキを勝手に外す音。誰かが機械声を真似し、笑う音。
蛭川が舞台袖で青ざめる。
「これは編曲データにない」
サビで歌声が膨らむ。生徒たちは、自分たちの声が伴奏に混ざっていることに気づき、次々と口を閉じた。それでも曲は止まらない。鈴蘭の視線入力で作られた合成声だけが、まっすぐ進む。
スクリーンに一行。
「名前はいらない」
蛭川は電源を落とそうとする。だが朔はピアノを弾き続けた。休符の長短が、点と線になっていると気づいたからだ。
最後のサビが終わる。余った休符をモールス符号として読んだ文字列が、画面へ展開された。
録音日時。教室番号。そして、いじめを「指導上の配慮」として処理した蛭川の報告書番号。
最後の一音の直前、鈴蘭の装置が作曲者欄へ彼女の名を入力する。
蛭川が叫んだ。
「誰が録音したか、全員の名前を出せ!」
鈴蘭はゆっくり瞬きをした。
「名前はいらない」
最後だけ、その言葉は匿名を望む謙虚さではなかった。
名前がなくても、声と記録が、したことを全部証明する。
ピアノの最後の一音が鳴る。卒業証書を受け取るより先に、鈴蘭の曲が教室から彼女を解放した。