南向きではない部屋
「南向き、最上階、今日中に申し込みたいです」
内見に来た夫婦は、榛葉美緒が鍵を開けるより先に言った。人気物件で申込順位は二番目。迷えば先を越される。
部屋に入ると、妻は大きな窓を見て笑った。夫はスマートフォンで家具を撮り始めた。美緒はカーテンを全開にせず、窓際へ手を置いた。冬の午後なのに床が熱い。向かいのビルのガラスが日光を反射していた。
「夏は冷房が効きますか」
「新しい建物ですから」
管理会社の担当者は即答したが、美緒は窓を閉めたまま耳を澄ませた。三分後、低い振動音が壁を伝った。屋上の給水ポンプが動く時間だった。
夫婦には生後半年の子がいる。最上階なら足音の心配が少ないと考えていたが、夜中も一定間隔でこの音がする。重要事項の書面には故障ではないため載らない。
美緒は申し込み用紙を出さず、同じ建物の東向き六階を見せてほしいと管理会社へ頼んだ。面積は二平方メートル狭く、広告では目立たない部屋だった。
管理会社は営業時間後の見直しを渋ったが、美緒は鍵の返却を遅らせ、警備へ退館時刻を届けた。短時間で成約させるより、同じ建物へ二度案内する方が手間はかかる。その手間を惜しむと、入居後の苦情が長く残る。
六階は朝日が入り、午後の反射熱がない。ポンプの振動も届かない。廊下から玄関までの曲がり角は、ベビーカーを畳まず通れた。
「でも南向きではないですよね」
妻が迷った。
美緒は二部屋を夕方六時にも見直すことにした。営業が客を急がせる時間ではないが、暮らしの音は短い昼の内見だけでは分からない。
六時、最上階では夕食時の給水に合わせてポンプ音が響いた。東向きの部屋には、静かな空の明るさが残っていた。
夫婦は六階へ申し込んだ。順位は一番だった。
手続きを終えた美緒が事務所へ戻ると、店長は「最上階の方が店の収入は多かった」とだけ言った。
その直後、入口のベルが鳴った。夜勤明けらしい男性が、遮光性の高い部屋を探しているという。
美緒は物件一覧を閉じ、まず勤務時間を尋ねた。