口紅の番号
久世汐里は、メイクルームの鍵を内側から掛けていた。
扉の向こうでは、南雲芹奈が名前を呼んでいた。返事はない。式場スタッフから借りたマスターキーで開けると、汐里は鏡の下に座り込み、イヤリングを外していた。
「父が来てる」
新郎が用意した「仲直りのサプライズ」だった。高校を卒業して家を出て以来、汐里は父と会っていない。怒鳴られたことも、財布を取り上げられたことも、詳しくは芹奈に話さなかった。
芹奈は、家族とはいつか話した方がいいと思う人だった。自分も母と何年も絶縁した末、病室で和解している。だから汐里にも「一度くらい会えば」と言ったことがある。
鏡越しに、芹奈は自分の過去が他人の答えにはならないと知った。
「ロビーにいる。新郎側の席、最前列」
汐里は立とうとして、ドレスの裾を踏んだ。芹奈は手を貸さず、まず床のヒールを遠くへどけた。それから汐里の小さなバッグに財布、鍵、充電器が入っているか確かめる。逃げ道は従業員通路。タクシーは裏口へ呼べる。
「顔、直す?」
汐里がうなずいた。泣いてはいなかったが、唇の色だけが消えていた。
芹奈はポーチから深い赤の口紅を出した。汐里が普段なら選ばない色だ。番号は四〇七。芹奈が仕事の面接や謝罪に行く日に使う、逃げずに立つための色だった。
「似合わなかったら拭いて」
短く言い、汐里の唇に塗る。次に同じ口紅を自分にも引いた。
廊下へ出ると、角の向こうから父の声がした。汐里の肩が固まる。芹奈は励まさず、汐里と父の間に立ち、スタッフへ「本人は面会を希望していません」と伝えた。父が何か言い返すたび、同じ文を繰り返した。
汐里は新郎に電話をかけた。式を止めること、父を呼んだ理由は後で聞くこと、今日は会わないこと。三つだけ告げて切った。
芹奈には、汐里がいつか父と話すかどうかはわからない。自分なら話すだろう。それでも今日、二人が選ぶ出口は同じだった。
裏口の自動ドアが開く。汐里は先に出ず、芹奈の袖を一度だけ引いた。
二人は並んで外へ出た。曇ったガラスに、同じ番号の赤が二つ映った。