台本にない王子
本番十分前、王子役が熱を出した。
三年五組の劇は『眠れる森の姫』。保健室へ運ばれた王子の代わりに、衣装係の久住万緒が指名された。
「台詞、全部知ってるよね」
「衣装直しながら聞いてただけ」
「背丈も同じ」
「理由が雑」
拒む時間はなかった。白い上着を着せられ、金色の肩章を安全ピンで留められる。万緒が縫った衣装なのに、自分が着ると袖が少し長かった。
舞台が始まる。
森の精、魔女、姫。袖で台詞を口の中に繰り返し、出番を待つ。王子が登場するのは終盤だけだ。客席は、代役のことを知らない。
「王子、行って!」
背中を押される。
万緒は剣を持って舞台へ出た。
最初の台詞は出た。二つ目も。魔女との戦いは、振り付けを左右逆に覚えていて、相手の剣と何度もぶつかった。客席が笑う。予定にない笑いだったが、魔女役はすぐ「なんと不器用な王子!」と台詞を足した。
問題は、姫を起こす場面だった。
台本では王子が姫の手を取り、「あなたをずっと探していました」と言う。
ベッド役の台の上で、姫役の周防杏梨が目を閉じている。
万緒はその手に触れた。
台詞が消えた。
杏梨とは春から一度もまともに話していない。中学では毎日一緒に帰ったのに、高校へ入り、別の友達ができ、理由もなく離れた。文化祭準備でも、万緒は衣装を渡すだけだった。
客席が静かになる。
杏梨の指が、万緒の手を小さく握った。
万緒は台本を捨てた。
「探してたんじゃない」
舞台袖がざわつく。
「ずっと近くにいたのに、声をかけなかっただけだ」
杏梨が目を開けた。
驚いた顔のまま、姫として答える。
「では、今は?」
「今は、話したい」
予定より早く姫が起き上がった。
音響係が慌てて祝福の曲を流す。森の精たちが飛び出し、強引に大団円へ運んだ。幕が下りると、クラス全員が「何だあれ」と万緒へ詰め寄った。
杏梨だけは笑っていた。
「王子、台詞違った」
「姫も起きるの早い」
「返事したかったから」
その後の写真で、万緒は王子の衣装のまま杏梨の隣に立っている。肩章は途中で外れ、袖口の糸もほつれていた。
万緒が文化祭から持ち帰ったのは、賞状でも衣装でもない。
台本に書かれていなかった一言から、止まっていた会話がもう一度始まったことだった。