台詞の外で父と呼ぶ

 老俳優の最後の舞台で、娘は舞台袖のプロンプターを任された。

 父は家庭より芝居を選び続けた。娘の卒業式にも、妻の手術日にも、地方公演を理由に戻らなかった。

「台詞を忘れたときだけ助けてくれ」

「昔は家族の約束ばかり忘れたのに」

「それも誰かに教えてほしかった」

「教えた。何度も」

 父は返事をしなかった。

 演目は、長く家を離れた男が老いて帰郷する話だった。役と本人が似すぎて、娘は嫌いだった。

 本番、父の声は震えていた。それでも客席は息を詰め、帰ってきた男の言葉を聞いた。

 終盤、父が玄関の前で言う。

『ただいま』

 相手役の台詞は、『ずっと待っていました』。

 しかし父は、その前で次の言葉を忘れた。舞台袖を見た。

 娘は台本を開いたまま、何も言わなかった。

 父が小さく息を吸う。

『遅すぎたな』

 台本にない台詞だった。

 娘の口から、思わず言葉が出た。

「遅かったね」

 客席には聞こえないはずの声だった。

 父は舞台上でうなずいた。

『それでも、帰ってきたかった』

 相手役は一瞬迷い、扉を開けた。観客は演出だと思い、静かに泣いた。

 終演後、父は楽屋で衣装を脱げずにいた。娘が背中の留め金を外した。

「台詞を変えた」

「分かってる」

「舞台を私物化した」

「ずっとしてたでしょ」

 父は鏡の中の娘を見た。

「家へ帰ってもいいか」

「どの家」

「お前の母親と暮らした家」

「もう売った」

 父の顔が崩れた。

「じゃあ、帰る場所はないな」

「そう簡単に悲劇にしないで」

 娘は衣装を畳んだ。

「高齢者住宅の見学、来週予約してある。私の家へ同居はしない。通院も毎回は行けない。でも連絡は取る」

「それを帰ると言っていいのか」

「舞台みたいな答えを求めないで」

 娘は楽屋を出る前、一度だけ振り返った。

「父さん、忘れ物しないで」

 父は目を閉じた。泣いたかどうか、娘は確かめなかった。

 それは台本の外で、娘が何年ぶりかに呼んだ名前だった。

 拍手はなかった。

 だからこそ父には、舞台の台詞ではなく、本当に自分へ届いた言葉だと分かった。