台車のいちばん下
宮地紬が退職を決めてから、狭間弥生は必要なことしか話さなくなった。
総合病院の入退院窓口で、二人は五年並んで働いた。紬は、患者を番号で呼ぶたびに自分の声まで機械になると言った。弥生は、番号で呼ぶからこそ順番が守られると言った。紬は人手不足を理由に休憩を削る職場から離れたかった。弥生は、人手が足りないなら慣れた人間が残るべきだと思っていた。
どちらも相手を薄情だと思う瞬間があり、どちらもその考えを口にはしなかった。
紬の最終勤務日、退院書類を載せた台車の車輪が一つ外れた。午後から病棟移動があり、書類は十五時までに運ばなければならない。送別の花束は事務室で待っていたが、交換用の台車は別棟にしかなかった。
「半分ずつ持てば行ける」
紬はファイルを抱えた。弥生は首を振った。
「階段で落としたら終わり。台車を直す」
「修理担当、今日は来ないよ」
「車輪だけなら戻せる」
弥生は床に膝をつき、外れた金具を拾った。紬は腕時計を見た。もう自分の仕事ではない、と言うこともできた。弥生も、辞める人に手伝わせる必要はない、と言えた。
紬は受付下の工具箱を持ってきた。弥生が車輪を支え、紬が六角レンチを回す。締めすぎる紬の手を弥生が止め、緩すぎる弥生の金具を紬がもう半回転だけ回した。
直した台車にファイルを戻すと、いちばん下から外国語の案内冊子が落ちた。補充されないまま、数か月忘れられていたものだ。
「これ、使う人いるのに」
「予算申請が通らない」
「だからって、下に置く?」
「だから今日、持っていく」
弥生は冊子を上段へ載せた。紬は在庫表を開き、必要数を書き込む。二人は台車の左右に立ち、傾くたび同時に押し戻しながら病棟へ向かった。
エレベーター前には、書類の説明を待つ家族がいた。弥生は番号札を確認し、紬は椅子を一脚近くへ運んだ。言葉の優先順位は違っても、待たせた人を立たせたままにはしなかった。
配り終えたあと、紬は花束を受け取り、弥生は空の台車を引いた。玄関の段差で車輪が鳴ると、二人とも足を止め、同じ側から台車を持ち上げた。