名前を貼ったスープ
杏珠の元恋人は、冷蔵庫の右半分を使っていた。
別れたあとも、粒マスタード、燻製塩、飲みかけの炭酸水が、持ち主の帰宅を待つように並んでいる。
隣室の麻弥は、食品を捨てることをひどく嫌う。賞味期限を一日過ぎただけで処分する杏珠とは、自治会のごみ当番でも何度か言い合った。
「全部捨てたい」
「食べられる物は食べる」
「見るたび気持ち悪いの」
「気持ちは腐敗判定にならない」
麻弥はエプロンを持参し、冷蔵庫の前に座った。
冷蔵庫の扉には、二人で決めた買い物当番の表が磁石で留まっていた。杏珠は表を剥がし、裏返して分別メモに使った。
二人は、開封日を覚えている物と、覚えていない物に分けた。覚えていないソースは捨てる。未開封の缶詰はフードバンクの箱へ。高価なチーズは、元恋人が自分用に買ったものだった。
「これは返す」
「冷蔵便のほうが高い」
「じゃあ捨てる」
「それも嫌」
話は平行線のまま、麻弥が鍋を出した。
チーズと残った牛乳、しなびた玉ねぎでスープを作る。杏珠は、失恋した人に料理を食べさせるため来たのかと疑ったが、麻弥は味見も勧めず、保存容器を四つ並べただけだった。
「今夜食べなくていい。冷凍する」
「元彼のチーズなのに」
「代金を請求されたら払う?」
「払わない」
「なら杏珠の食材」
煮える匂いは懐かしくなかった。二人で暮らしていた頃、彼は台所に立たなかったからだ。
麻弥が鍋を傾け、杏珠が容器を押さえた。一杯分ずつ注ぎ、冷めるまでふたをずらす。ラベルに日付を書こうとして、麻弥が「名前も」とペンを渡した。
杏珠は四枚すべてに自分の名を書いた。
最後に炭酸水を流し、瓶をすすぐ。右半分の棚が空いた。麻弥は詰め直そうとしたが、杏珠が止めた。
「今日は空けておきたい」
「電気効率は悪いよ」
「一晩だけ」
麻弥は納得していない顔で、棚を拭く布を差し出した。
二人は奥から手前へ同じ方向に拭いた。白い棚に、誰の輪郭も残らなくなる。
麻弥は自室へ帰り、杏珠は一人で冷凍庫を開けた。四つの容器が、右半分にきちんと並んでいた。