味見はできない

早瀬川弥生は、母・沙都が死んだあと、夕方になると死者回線へ電話した。

「肉じゃが、醤油は大さじ何杯?」

『鍋を見て決めなさい』

「見ても分からないから聞いてるの」

『じゃがいもが、いい色になるくらい』

生前から、母の料理には数字がなかった。砂糖はひとつまみ、出汁は匂いが立つまで、火を止めるのは鍋が教える。弥生は几帳面な研究職で、そんな説明を信用していなかった。

それでも七歳の息子・茅人が「ばあばのご飯が食べたい」と言うたび、電話した。母の声を台所へ置けば、同じ味が戻る気がした。

煮物は甘すぎ、卵焼きは固く、味噌汁は薄かった。茅人は一口食べては「ちょっと違う」と首をかしげた。

弥生の舌にも、母の正解は残っていなかった。病床の沙都に合わせて薄味になった最後の一年と、幼いころの濃い味が混ざり、何を再現したいのかさえ曖昧だった。

弥生は苛立ち、ある夜、受話器へ鍋を近づけた。

「音で分からない? ぐつぐつしてる」

『私は味見できないよ』

「知ってる」

『あなたも、もう私の舌では味見できない』

母は笑った。

『同じ味を作ろうとするから、失敗するの。茅人の好きな味を聞きなさい』

弥生は電話を切り、息子を台所へ呼んだ。

「何が違う?」

「ばあばのは、にんじんが少なかった」

「あなた、にんじん嫌いなだけでしょう」

「あと、もっと甘かった」

「さっき甘すぎるって言った」

「甘いのは好き」

二人で言い合いながら、醤油を足し、少し焦がした。完成した肉じゃがは沙都のものとはまるで違ったが、茅人は二杯食べた。

それから弥生は、電話の回数を減らした。料理を忘れたときではなく、母に話したいことがある日にだけかけた。沙都も献立を尋ねなくなり、茅人の背が伸びたことや、弥生の仕事の愚痴を聞いた。

半年後、茅人が台所で卵焼きを作った。砂糖を量ろうとする弥生を押しのけ、適当に入れる。

「多すぎない?」

「卵が教えるから」

焦げた卵焼きを食べ、二人で笑った。

弥生は母へ電話しなかった。その笑い声まで報告しなくても、今ここにいる自分たちの味として残ると思えた。