地球の雨を一瓶

 火星生まれの星名カイが祖母から受け継いだのは、百八十ミリリットルの水だった。

 丸いガラス瓶に、古い字で〈地球の雨〉と書かれている。

 祖母は地球から来た最後の世代だった。亡くなる前、何度も言った。

「雨は空から落ちてくるのに、誰のものでもなかった」

 カイには意味が分からなかった。火星居住区の水は、すべて所有者と用途が決まっている。飲料水、栽培水、洗浄水。一滴でも記録され、使えば循環槽へ戻される。

 用途のない水ほど、困る遺品はない。

 学校の先生は瓶を博物館へ寄贈するよう勧めた。母は「おばあちゃんの形見だから、開けてはいけない」と言った。

 カイもそう思っていた。瓶の中の雨は、減らなければ永遠だ。

 ある日、低学年の子に聞かれた。

「雨って、どんな音?」

 カイは説明しようとした。

 配管が鳴る音。散水ノズルの音。シャワーが床を打つ音。

 どれも違う気がした。祖母は、雨の話をするときだけ、目を閉じていた。

 翌週、カイは瓶を教室へ持っていった。金属の盆を床へ置き、蓋に細い穴を開けた。

 先生が息をのむ。

「本当に使うの?」

「使わないままなら、ぼくしか持てないから」

 瓶を傾けると、最初の一滴が盆へ落ちた。

 ぴん。

 次の一滴。その次の一滴。

 子どもたちは輪になり、誰もしゃべらなかった。やがて滴は重なり、小さなざわめきになった。天井も雲もない教室に、百八十ミリリットルだけの雨が降った。

「こんなに小さい音なの?」

「たぶん、本物は空いっぱいだった」

 最後の数滴は、祖母が残した種の鉢へ落とした。地球から持ち込まれた、名も知らない草の種だった。

 一か月後、薄い緑の芽が出た。

 瓶は空になった。博物館へ渡せる雨も、母へ返せる形見も、もう残っていない。

 けれど教室の子どもたちは、配管が鳴るたび「あの日の雨に似ている」と言った。芽は葉を増やし、葉から蒸散した水は居住区の循環槽へ入り、やがて皆の飲み水になった。

 祖母の雨は、なくなったのではなかった。

 持ち主の名前を失って、ようやく火星の雨になったのだ。