坂道に星を運ぶ
仕事を辞めた日の夕方、薄橋燈矢は丘の上の公園へ向かっていた。
退職届を出したあとの鞄は軽いはずなのに、肩へ食い込んだ。家族にはまだ言えない。ベンチで日が暮れるまで時間をつぶすつもりだった。
坂の途中で、中学生の少女が大きな望遠鏡の箱を押していた。車輪の一つが溝にはまり、何度引いても動かない。
「手伝おうか」
少女は警戒した顔をしたが、箱から手を離さずにうなずいた。
二人で持ち上げると、想像以上に重かった。箱には望遠鏡のほか、三脚、星図、折り畳み椅子まで詰め込まれている。
「一人で運ぶ量じゃないよ」
「先生が来られなくなったから。今日、中止にしたくなくて」
少女は、町の子ども向け観望会を任されていた。去年まで主催していた祖父が亡くなり、今年が初めての一人開催だという。
坂を上る間、燈矢は何度も休んだ。少女はそのたび、「もう大丈夫です」と箱を引き取ろうとした。
「公園まで持つよ」
自分の口から出た言葉に、燈矢は驚いた。今日、会社では「もう無理です」としか言えなかったのに、誰かの荷物なら、もう少し持てるらしい。
丘へ着くと、親子が十人ほど待っていた。少女は望遠鏡を組み立てたが、説明の途中で声が震えた。
燈矢は帰らず、三脚を支え、並ぶ子どもたちの順番を整理した。
最初に見えたのは木星だった。
小さな男の子が接眼鏡をのぞき、「縞がある!」と叫んだ。次々に歓声が上がる。少女は泣きそうな顔で笑った。
「祖父が、星は一人で見てもいいけど、見えたって言う相手がいるともっと明るい、って」
燈矢は木星を見た。
遠くの光は、仕事を失った自分を慰めはしなかった。それでも、明日も空があることだけは分かった。
帰宅して家族へ退職を話すと、妻はしばらく黙り、言った。
「一人で運ぶ量じゃなかったでしょう」
燈矢はうなずいた。
小さな親切で運んだのは、望遠鏡だけではない。
坂の下で立ち止まっていた二人が、それぞれの明日まで持っていけなかった荷物を、ほんの少しずつ持ち合ったのだ。